昭和天皇の后 香淳皇后の活動記録「香淳皇后実録」公開https://t.co/1zNDTHjdX9 #nhk_news
— NHKニュース (@nhk_news) October 8, 2025
宮内庁が17年かけて編さんした昭和天皇の后の香淳皇后の活動記録、「香淳皇后実録」が9日公開されました。昭和天皇とともに、戦前から戦後の激動の時代を歩んだ97年の生涯が、詳細に記されています。
目次
7項目
「香淳皇后実録」とは
実録には戦争で傷ついた人たちを支援していた記述が随所に
戦時中の皇居内での様子も明らかに
昭和天皇とともに国民と交流を深める姿
香淳皇后の関心や人柄がかいま見える記述も
宮内庁のホームページで初めて無料公開
宮内庁長官「皇室と国民のありようを築いてこられた」
香淳皇后実録は、香淳皇后の活動や生涯を後世に伝えるため、宮内庁が公文書や側近の日誌などおよそ1500件の資料をもとに17年かけて編さんした、13冊、3800ページ余りにおよぶ記録集です。中では、昭和20年8月15日の終戦の日、当時暮らしていた「御文庫」と呼ばれる皇居内の防空施設で、玉音放送をラジオで聞いたことや、前日には多忙な昭和天皇を気遣い、内廷庁舎などと御文庫との間を行き来する際に見送りや出迎えをしていたことといった、終戦間際の様子が初めて明らかにされています。
また、
▽真珠湾攻撃の直前に連合艦隊司令長官、山本五十六と面会し、「重大ナル任務ヲ帯ビテ出征スル 趣洵ニ御苦労ニ思フ」とことばをかけたことも記載されています。このほか、
▽病院で負傷した兵士を慰問し、義眼や義肢などをあわせて167回贈っていたことや
▽各地の女性の状況を視察するために、女性皇族を派遣したこと
▽アメリカやイギリス、それにドイツといった、各国の実情について、有識者からたびたび講義を受けていたことなど、戦時中の様子が記されています。一方、大正12年に発生した関東大震災について、結婚を直前に控えた香淳皇后が滞在していた新潟県でも治安が動揺していたとして、警備のために軍の一個小隊が派遣されたことも明らかになりました。
一方で、昭和史の研究の内容が大きく見直されるような新たな事実の記述や、これまで知られていなかった昭和天皇の発言の記載はありませんでした。
香淳皇后実録は9日午前9時半から、天皇実録や皇后実録では初めて、宮内庁のホームページで公開される予定です。
「香淳皇后実録」とは
「香淳皇后実録」は、香淳皇后の活動や生涯を後世に伝えるため、客観的な資料をもとに日誌のような形で年代順に記した記録集です。目次や凡例をあわせて13冊、3800ページ余りあり、宮内庁が平成20年4月から資料の収集を始め、17年かけて完成させました。
先月、和とじされたものが天皇皇后両陛下と上皇ご夫妻に奉呈されています。
宮内庁は編さんにあたって、宮内庁の公文書や側近の日誌などおよそ1500件の資料を集めたほか、元職員ら30人の聞き取りを行い、人件費を除いておよそ5600万円がかかったということです。
確実な情報に基づいているかどうかということを掲載基準としていて、複数の資料による事実の検証が困難だったものは記載しなかったり、昭和天皇と行動を共にしている場合は詳細を「昭和天皇実録」に譲り、記載を省略したりしています。
17年間の編さんに携わった常勤の職員数十人のうち、女性は5人だったということで、このうちの1人は公開を前に「女性がいないというのは私自身気になったところだった。皇后実録という女性皇族の生涯をつづった編さん物で、足りない部分やできなかったところもあるのではないかと思っている。本文が公開されたあと、読者の皆さまから多様な視点で意見や批判をいただければと考えている」と話していました。
実録には戦争で傷ついた人たちを支援していた記述が随所に
実録には、戦地で負傷した兵士に義眼や義肢を贈ったり、空襲の被害にあった子どもたちのために菓子を贈ったりと、香淳皇后が戦争で傷ついた人たちを支援していた記述が随所に見られます。
陸軍病院や海軍病院をたびたび訪れて負傷した兵士たちを見舞い、「皇国ノ為トハ言ヒナガラ 皆気ノ毒ナ者ニツキコノ上トモ 十分労ハリ遣ハス様ニ」などとことばをかけたと記されています。
また、昭和2年から昭和20年にかけて、負傷した兵士に義眼や義肢などを167回贈ったことが記録されています。
このほか、包帯あわせて5万2000本を贈ったことや、自身も包帯を巻く作業を行っていたと記されています。
戦傷病者の慰問や、各地の女性の活動を視察するため女性皇族を朝鮮や台湾を含む各地に派遣し、香淳皇后自身も東京の保健施設や農村部などを訪れていたことが記録されています。
昭和19年12月には学童疎開で親元を離れた子どもたちのために、ビスケット41万4000袋と、「疎開児童のうへを思ひてつきの世をせおふへき身そたくましくたゝしくのひよさとにうつりて」という和歌を贈り、さらに昭和20年4月には、東京大空襲で被害にあった子どもたちに菓子1万6000袋を贈ったとされています。
戦時中の皇居内での様子も明らかに
戦時中の皇居内での様子も初めて詳細に明らかになりました。香淳皇后は学者や有識者から定期的に講義を受けていましたが、戦時中には同盟関係にあったドイツやイタリアの情勢や思想、そして相手国だったアメリカやイギリスの国民性や歴史などに関する講義もあったことが記録されています。
戦況の悪化に伴い、皇室の行事や生活への影響に関する記述が増えていき、昭和20年5月の空襲で皇居の宮殿が焼け落ちた際には、焼け跡に出向くとともに、焼け出された品物を頻繁に整理していたことも記されています。
終戦の日前日の昭和20年8月14日には、多忙だった昭和天皇を気遣って内廷庁舎などとお住まいの「御文庫」との間を行き来する際に見送りや出迎えをして、手作りの菓子を昭和天皇に贈ったことも記載されています。
そして8月15日には御文庫でラジオをつけて、正午からの玉音放送を最後まで聞き、そのあと御文庫附属室から戻った昭和天皇を出迎えたことが記されています。
昭和天皇とともに国民と交流を深める姿
実録には、戦後も戦争で肉親を亡くした人や、復員した兵士に心を寄せ続けるとともに、昭和天皇とともに各地を訪ね、国民と交流を深める姿が記述されています。終戦翌年の昭和21年2月には、病院などへの訪問で、復員した兵士の患者にことばをかけたり、引き揚げ者のために、薬品や医療用器具を贈ったりしたと記されています。
同じ年の12月には、日本赤十字社の通常総会で、「父母を失い、夫や子を失つた人たちの悲しみと悩みは充分察することが出来ます。どうしたならば、そういう人たちの心の傷を少しでも軽くすることが出来るでしようかと、日々心をいためております」とのおことばを述べました。
戦後は、各地への訪問を昭和天皇と一緒に行う形が定着し、国民と交流を深めるとともに、社会的に弱い立場にある人たちに心を寄せる様子も記載されています。
昭和33年4月に、植樹祭にあわせて九州を巡った際には、大分県の障害者施設で編み物の練習をしていた下半身不随の女性にことばをかけたり、宮崎県の児童福祉園で、報道陣のフラッシュにおびえた児童をあやしたりしました。
昭和46年は、ヨーロッパ7か国を、昭和50年にはアメリカをそれぞれ訪問し、昭和天皇とともに国際親善につとめる姿や、受け入れた現地の状況などが記述されています。
香淳皇后の関心や人柄がかいま見える記述も
実録には、香淳皇后の関心や人柄がかいま見える記述も見られます。
香淳皇后は、日本画など芸術に関心が高く、亡くなった時におくられた「香淳皇后」という追号も、それらを踏まえて決められました。
実録には、絵画の展覧会やコンサートなどに繰り返し足を運んだことや、画家から指導を受けながら、みずからも絵を描いていたことが記録されています。
また、昭和42年と44年に画集が刊行されたことや、昭和48年に開かれた日本画などの展覧会の様子も記述されています。
終戦から2年後の昭和22年には、「時節柄電気の節約につき種々御研究になる」と記されています。
また、昭和23年9月、視力や聴力を失い、話すこともできないという、3つの障害を乗り越えたヘレン・ケラーと面会した際には、ヘレン・ケラーのために香をたいたことが記録されています。
家族とのエピソードも盛り込まれていて、昭和23年7月には、上皇さまが愛用されていたスクーターに試乗したという記述がありました。
また、昭和30年には、昭和天皇とともに、上皇さまが運転された自動車に乗ったことが記録されています。
さらに、昭和36年、娘の東久邇成子が亡くなった日には、「皇后お手ずから、あるいは御指示により成子の化粧直しが施された」と記述されています。
宮内庁によりますと、成子が宮内庁病院に入院した昭和36年4月から7月に亡くなるまでの間に、香淳皇后は、昭和天皇とともに28回、単独でも34回、見舞いに訪れたことが確認できるということです。
宮内庁のホームページで初めて無料公開
香淳皇后実録は、これまで宮内庁が編さんした天皇実録や皇后実録の中で初めて、宮内庁のホームページで公開されます。「天皇実録」は、「天皇紀」と呼ばれることもあり、明治になってから、孝明天皇以降の天皇の記録集が作られています。
また、「皇后実録」として、明治天皇の后の昭憲皇太后と、大正天皇の后の貞明皇后の実録が作られているほか、明治より前の天皇や皇后などについてまとめた実録も作られています。
宮内庁は平成25年から所蔵資料や刊行物を公開する取り組みを進めていて、香淳皇后実録はこれまでの実録の中では初めて、ホームページで無料で公開されることになりました。
宮内庁編修課は、「スマートフォンでも見ることができるので、できるだけ多くの人に読んでいただきたい」と話しています。
専門家「公的な記録に加えてプライベートな生活がうかがえる」
宮内庁の元職員で、香淳皇后実録の編さんにも携わった、立正大学文学部の真辺美佐教授は「昭和天皇実録が基本的に公的な記録だったのに対し、香淳皇后実録は公的な記録に加えてプライベートな生活がうかがえるところまで細かく書かれているのが特徴で、読みどころがたくさんある。香淳皇后はゆったりとしてあまり精力的に活動されるイメージはなかったが、実録を見ると昭憲皇太后や貞明皇后と同じように日々精力的に皇后としてのお務めを果たすために活動されており、さらにこれまでの皇后以上に深い教養を身につけようと行動されていたことが見て取れる」と話していました。また、戦前と戦後で皇后としての行動に変化が見られるとしたうえで、「国民とのつながりをとても大切にされていたことがうかがえる。おことばの中で、戦前にはほとんど使うことのなかった『平和』ということばが、戦後になるとたびたび確認されるようになり、平和の象徴としての役割を果たそうとしたのではないか」と指摘しました。
そしてこれまで宮内庁が編さんした天皇実録や皇后実録の中で初めて、宮内庁のホームページで公開されることについては、「本屋に行ったり宮内庁に行って開示請求したりしないと見られないという状況ではなく、誰でもどこでも読むことができるというのは大きな1歩であり、宮内庁の英断だと思う」と評価していました。
専門家「自分の役割を必死で模索していたことが分かる」
明治以降の皇后について研究している成城大学文芸学部の森暢平教授は「戦争中、香淳皇后が兵士を励ましたり、いたわったりする役割を果たしていたことや、銃後の女性の主導役・模範としてふるまっていたことがよくわかる内容となっている。戦争における皇后のジェンダー的な役割を見返すうえで非常によい資料だ」と話していました。そのうえで、「戦争に向かう時代、戦争に負けて民主化に向かう時代、それぞれの中で、香淳皇后が自分の役割を必死で模索していたことが、非常によく分かる内容だった」と話していました。
香淳皇后の歩み
香淳皇后は明治36年に皇族だった久邇宮家に生まれ、良子(ながこ)と名づけられました。
大正7年、学習院女学部中学科に在籍していた14歳の時に、当時皇太子だった昭和天皇との結婚が内定しました。
直後に学習院を退学すると、久邇宮家に設置された御学問所で、国語や数学、フランス語やピアノ・唱歌、それに和歌や琴などといった「お妃教育」を受けました。
大正12年、関東大震災が発生した際には新潟県に滞在していて、新潟県でも治安に動揺が見られたことから、軍の一個小隊が派遣されて皇族たちの警備にあたりました。
この年に予定されていた結婚は関東大震災の影響で1年延期されることとなり、翌年、20歳の時に結婚すると、その2年後に大正天皇が亡くなり、昭和天皇の即位に伴って皇后になりました。
戦前、戦中は激動の時を過ごしました。
戦地で負傷した兵士に義眼や義肢、包帯などを贈ったほか、陸軍病院や海軍病院で兵士をたびたび慰問しました。
また、女性皇族を各地に派遣するとともに、自身も東京の保健施設や農村部などを視察しました。
さらに、空襲の被害にあったり、疎開したりした子どもたちに対して、菓子も贈りました。
戦後は、象徴の立場となった昭和天皇とともに、国民体育大会や植樹祭で各地を訪ねたほか、日本赤十字社の名誉総裁に皇后として初めて就任し、医療や福祉に力を注ぎました。
国際親善の面でも、昭和46年にヨーロッパを、昭和50年にアメリカを訪問し、香淳皇后がほほえむ姿は「エンプレス・スマイル」、「皇后のほほえみ」と呼ばれて行く先々で話題となりました。
日本画や書道、歌道などの多才な趣味を持ち、出版された画集は外国賓客への贈答品に加えられたり、70歳の古希を祝って開かれた作品展の収益金は、日本赤十字社の事業資金に繰り入れられたりしました。
昭和52年、栃木県の那須御用邸で腰を痛めるなどして、高齢となってからは外出が少なくなったほか、行事や儀式の所作に滞りも見られるようになりました。
昭和62年、当時の宮内庁次長は国会で、香淳皇后の健康状態について「老人特有のいろいろな状況がある場合がよくおありになる」などと答弁しました。
昭和天皇が昭和64年1月に亡くなったあとは、皇太后として皇居のお住まいで穏やかな日々を過ごし、平成12年、老衰のため、97年の生涯を終えました。
確かな記録の残る歴代の皇后では最も長寿で、皇后だった年月も62年余りと最も長くなりました。
「香淳皇后」は追号と呼ばれるおくり名で、美しいとか優雅という意味をもつ「香」の字に、情け深いという意味の「淳」という字を組み合わせたものです。
生前の人柄や芸術への関心の高さが考慮されて決められました。
宮内庁長官「皇室と国民のありようを築いてこられた」
宮内庁の西村泰彦長官は、9日の記者会見で、香淳皇后実録について、「実績や活動を広く国民が理解するということに、大変大きな意義があると思う」と述べました。そして、「特に戦後の新憲法下で、昭和天皇と手を携えて全国各地をまわって国民の中に入っていかれ、皇室と国民のありようを築いてこられたということで、改めて心からの敬意を感じた。その伝統は平成そして令和と、皇室の皆様方に引き継がれている。常に国民に寄り添い、国民の幸せを願われる。そうしたご活動は、まさに昭和時代も同様だったと認識している」と話していました。
#天皇家
ノーベル賞 北川進さん「地球環境守ることに使っていきたい」https://t.co/wueTsqmUiq #nhk_news
— NHKニュース (@nhk_news) October 8, 2025
ことしのノーベル化学賞の受賞者に選ばれた京都大学理事の北川進さん(74)が8日夜、NHKの取材に応じ、自身の開発した材料について「地球環境を守ることに使っていきたい」などと述べ、今後、さらに研究が発展していくことを期待していました。
京都大学理事の北川さんは「多孔性金属錯体」と呼ばれる極めて小さな穴を多く持った材料を開発し、新たな分野を確立したとして、海外のほかの2人の研究者とともに、ことしのノーベル化学賞の受賞者に選ばれました。
発表を受けて8日夜、大学で記者会見が開かれ、北川さんは「非常に感激しているし、一緒に進めてきた皆さんに感謝を申し上げたい」とあいさつしました。
今回の受賞理由となった北川さんが開発した材料は、二酸化炭素を吸収する装置などとしてすでに実用化されているものもあります。
これについて、北川さんは8日夜、NHKの単独インタビューの中で「扱いづらい『気体』を自由に扱える材料だと思っている」と述べた上で、「空気は小さな資源のない国にも等しく分布している。これを使う科学を発展させることが、平和に関わり、地球環境を守る上でも重要だ。この材料をぜひそういうところに使っていきたい」と話していました。
日本からのノーベル賞受賞は去年の日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会に続き2年連続で、個人ではアメリカ国籍を取得した人を含め今月6日に生理学・医学賞の受賞が決まった坂口志文さんに続いて30人目です。
北川さんは9日も京都大学で記者会見に臨む予定です。
「天に棄物無し」
用にもいろいろあるが、有用の用ばかりでなく無用の用というものもある。
いろいろ物事についてたえず心がけて、何事によらず工夫をしておると、どんなものでもみな棄てるものがない。(『水雲問答』)天地間のあらゆるものには、必ずそれだけの素質と機能がある。天地万物一つとして無用なものはない、無意味なものはない。必ず意味効用がある。
どんな人でも、必ずこれは絶対のもの。すべては個性的存在・独自の存在であります。
だから絶対に他にない、独自の意義・機能・使命というものがある。
先ず自分がどういう素質・能力を持ち、如何なる役に立つか、ということを解明することであります。
(『人生と陽明学』)
ノーベル文学賞、ハンガリーのクラスナホルカイ・ラースロー氏に https://t.co/QQMKmOsC0Q https://t.co/QQMKmOsC0Q
— ロイター (@ReutersJapan) October 9, 2025
スウェーデン・アカデミーは9日、2025年のノーベル文学賞をハンガリーの作家クラスナホルカイ・ラースロー氏に授与すると発表した。
「黙示録的な恐怖の中で芸術の力を再確認する説得力に満ちた先見的な作品」を授賞理由として挙げた。
ハンガリーからのノーベル文学賞受賞は2002年のイムレ・ケルテース氏に続き2人目。
クラスナホルカイ氏は、ルーマニア国境に近いハンガリー南東部の町ジュラに生まれた。1985年に発表した田舎町が舞台の小説『サタンタンゴ』はハンガリー文学にセンセーションを巻き起こした。
アカデミーは「この小説は、共産主義崩壊直前のハンガリーの田舎にある放棄された集団農場で貧困にあえぐ住民を力強く描いている」としている。
【速報 JUST IN 】【ライブ配信中】ノーベル文学賞にハンガリーの作家https://t.co/Of4VyFJQIj #nhk_news
— NHKニュース (@nhk_news) October 9, 2025
ことしのノーベル文学賞にハンガリーの作家で日本についての作品も発表しているクラスナホルカイ・ラースロー氏が選ばれました。
スウェーデンのストックホルムにある選考委員会は9日、ことしのノーベル文学賞に、ハンガリーの作家、クラスナホルカイ・ラースロー氏(71)を選んだと発表しました。
クラスナホルカイ氏は1954年、ハンガリーに生まれ、大学で法律や文学を学びました。
独特の文体と表現力が国際的に評価されていて、1985年に出版された初めての小説で、ハンガリーの村を舞台にした「サタンタンゴ」はのちに映画化もされました。
クラスナホルカイ氏は日本にもゆかりがあり、京都に滞在した経験をもとに日本の寺院などを描いた「北は山、南は湖、西は道、東は川」などを発表しています。
2015年にはイギリスで最も権威ある文学賞の翻訳部門にあたる「ブッカー国際賞」を受賞しています。
ノーベル賞の選考委員会は受賞理由について「説得力と先見性のある作品群は終末的な恐怖の渦中において、芸術の力を再確認させる」としています。
またクラスナホルカイ氏について「カフカからトーマス・ベルンハルトに至る中央ヨーロッパの伝統を受け継ぐ偉大な叙事詩作家で、不条理主義とグロテスクな過剰さを特徴としている。しかし彼の才能は多岐にわたり、やがて東洋へと目を向けることで、より思慮深く緻密に整えられたトーンを獲得していった」と評価しています。
ノーベル文学賞にハンガリーの作家が選ばれるのは、2002年のケルテース・イムレ氏に続いて2人目です。
クラスナホルカイ氏 日本にゆかり 京都舞台の小説も
京都を舞台にした小説「北は山、南は湖、西は道、東は川」
ことしのノーベル文学賞の受賞者に選ばれたハンガリーの作家、クラスナホルカイ・ラースロー氏は、代表作の1つで京都を舞台にした小説の「北は山、南は湖、西は道、東は川」を2003年に発表しました。この作品は日本でも出版されていて、翻訳した早稲田みかさんのあとがきによりますと、クラスナホルカイ氏は、2000年に国際交流基金招へいフェローとして半年間、京都に滞在し、能楽師のもとに通いながら、寺社建築や庭園などの日本の伝統文化を研究したということです。
「北は山、南は湖、西は道、東は川」は、京都のとある寺と、そこに隠されている美しい庭を描いた作品で、日本での滞在がきっかけとなって生まれたとしています。
クラスナホルカイ氏は、日本について「この国で、探し求めていたもの、それまでの自分の考えを一変させる決定的なことを見つけた。人間と外界との間にわずかながらも調和の可能性があることに気づかされたのです」と語っていたとも書かれています。
海外文学ファンから歓声「人気の高い作家」
ノーベル文学賞の発表にあわせて海外文学ファンたちが集まるイベントが9日夜、都内で開かれ、ことしの受賞者が発表されると大きな歓声が上がりました。
このイベントは、首都圏の海外文学ファンのグループがノーベル文学賞の発表にあわせて毎年開いていて、東京・渋谷区の会場には11人が集まりました。
会場には、参加者が持ち込んだ世界各国の作家の著作23冊が並べられ、集まった人たちは、ことしの受賞者を予想しあったりみずからが推す作品を語り合ったりして、発表の瞬間を待ちました。
中にはクラスナホルカイ・ラースロー氏を推す声も上がっていました。
そして午後8時ごろ、クラスナホルカイ氏の名前が発表されると大きな歓声が上がり、会場は拍手に包まれました。
クラスナホルカイ氏が選ばれると予想していた60代の男性は、「予想が当たり頭が真っ白です。ヨーロッパで高い評価を得ていたので満を持しての受賞だと思います」と話していました。
イベントを主催した浦野喬さんは、「人気の高い作家が選ばれたので『なるほど』という感じです。海外の作品には、日本にはない考え方や表現があり、刺激を受けます。海外作品の良さを伝える催しを続けていきたい」と話していました。
東京 新宿区の書店には特設コーナー
東京都内の書店では、ノーベル文学賞の発表の様子が店内のモニターに映し出され、受賞者が決まると早速、特設コーナーが設けられました。
9日夜、東京・新宿区の紀伊國屋書店新宿本店では、ノーベル文学賞の発表を行う会見の様子が店内のモニターに映し出され文学ファンがその様子を見守りました。
午後8時すぎ、ハンガリーの作家、クラスナホルカイ・ラースロー氏の受賞が発表されると見守っていた人たちから拍手が起きました。
受賞を受けて書店では急きょ、別の店舗からクラスナホルカイ氏の作品が次々と持ち込まれ、早速、特設コーナーが設けられていました。
今回の文学賞について東京の50代の男性は「半分悲しく、半分うれしいです。悲しいのは村上春樹さんにとってもらいたかったからで、うれしいのは事前にAIで予想した人が受賞したからです。AIの予想を受けて作品を読んだところ、ネガティブをポジティブに180度変える力がすごかったです」と話していました。
紀伊國屋書店新宿本店販売プロモーション担当の竹田勇生課長は、「ノーベル文学賞は、受賞者の作品を読んで、知らなかった世界や世界で起きている問題を知ることが意義だと思うので、それを大切に受賞者の作品を読んでもらいたいです。文学賞発表の日は、好きな作家がいつかノーベル賞を取るのではないかと思いながら楽しんでほしい」と話していました。
村上春樹さんの受賞を願った人たちは
ことしのノーベル文学賞にハンガリーの作家が選ばれ、兵庫県出身の村上春樹さんの受賞はなりませんでした。
県内の村上さんのファンからは落胆の声が聞かれました。
兵庫県出身の村上春樹さんがたびたび訪れた店として知られ、エッセーにも登場する神戸市中央区の老舗ピザ店では9日、村上文学ファンが集まってノーベル文学賞の発表の瞬間を見守りました。
午後8時すぎにハンガリーの作家、クラスナホルカイ・ラースロー氏の受賞が伝えられると、店内では落胆の声が広がり頭を抱えて悔しがる人の姿も見られました。
このあと、ファンたちは来年の受賞を願って乾杯し「2026年、絶対取るぞ」などと声を上げていました。
店を訪れていた男性は「ことしは阪神タイガースがセ・リーグで優勝し、村上投手がタイトルを取り、ということはノーベル文学賞は村上さんだと思っていたので、すごく残念です。また来年この神戸の地で皆さんと受賞を待ちたいです」と話していました。
また西宮市にある村上さんの母校の小学校では、発表を見守っていた元同級生などが落胆のため息をつきながらも村上さんに拍手をおくりました。
小学6年生のときの同級生の男性は、「ことしこそは、という気持ちはありましたが残念でした。またあしたから来年のきょうまで、村上さんが受賞できるように応援していきます」と話していました。
村上さんの長編小説の舞台と言われる町でも
また、村上さんの長編小説の舞台になったと言われている北海道美深町に集まったファンからは、落胆の声が聞かれました。
美深町の仁宇布地区は、村上さんが昭和57年に発表した長編小説「羊をめぐる冒険」に登場する地域と風景などが似ていることからファンなどの間では小説の舞台になったと言われています。
町内のレストランには、内外から集まった20人ほどのファンが、インターネット中継で発表を見守りました。
ハンガリーの作家、クラスナホルカイ・ラースロー氏の受賞が発表されると集まった人たちは残念そうな表情を浮かべていました。
東京都の30代の男性は、「発表のために『ハルキスト』の聖地に初めて来ました。ことしは残念でしたが、来年はきっと受賞します」と話していました。
また、家族とともに訪れた札幌市の10歳の男の子は「来年も再来年もチャンスがあるのでいつかはノーベル賞を手に入れることを祈っています」と話していました。
レストランのオーナーの柳生佳樹さんは「選ばれず残念でしたが、来年こそは村上さんが選ばれると期待しています」と話していました。
日本との関わりは深く、97年の初来日で伝統文化にみせられ、20000年と05年には国際交流基金のフェローとしてそれぞれ半年間、京都に滞在した。能楽師のもとに通いながら、寺社建築や日本庭園など日本の伝統文化を研究した。 https://t.co/5141Az3I9W
— 朝日新聞京都総局【公式】 (@asahi_kyoto) October 9, 2025