https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

建築学者、エッセイスト 上田 篤
 「維新の功臣で明治の逆臣」と言われる西郷隆盛(1827〜77)。その評価がいまだ定まっていないことも謎の一つだ。
<中略>
つまり明治維新の評価が、いまだ定まっていないのだ。
 実はそこにこそ「現代日本社会の価値意識の混乱の淵源がある」と思っている私は、最近、ある雑誌に西郷の評伝を連載した。それでわかってきたことがある。
<中略>
 西郷は明治四年から六年まで「内閣の首班」として数々の日本の近代化政策を進めたが、「遣韓使節問題」で筆頭参議を辞して故郷の鹿児島に帰ってからは、まったく逆の「伝統的日本の国づくり」をおこなった。つまり一人の政治家が、中央と鹿児島ではまったく違う政策を実行したのである。
<中略>
日本の中央は外国との交流もあって近代化政策を進めなければならなかったが、鹿児島のような地方では日本の伝統的生活様式のほうが実態に即していたからだ。
<中略>
 ということは、中央は欧米風に近代化あるいは国際化しても地方はそれぞれの伝統的な生活にしたがったほうがいいということになる。これはまったく道州制の考え方ではないか。
 そういう西郷の地域尊重主義は、維新戦争のときの態度を見てもわかる。西郷は戦争で勝利したあと、つねに「御地のことは御地の人におまかせもっそ」と言って、降伏した相手に戦後処理をやらせたのである。
 このような西郷のやり方を中央政府の大久保は黙認したが、木戸は許さなかった。それが西南戦争の遠因である。
 結局、木戸ラインが勝利した日本国家は、以後一貫して中央集権体制を強化し、今日「霞が関支配」と呼ばれる世界にも稀な中央集権国家をつくりあげた。

産経新聞朝刊)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20080922#1222068691小沢一郎1)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20081001#1222848016小沢一郎2)