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2011/07/20 闘う保守〜書評『逆説の政治哲学』2〜

 我々は社会を形成し、その中で人間関係を営んで生きています。著者は我々が人間関係の中で生きる限り、そこには必ず「政治的」なるものが存在すると言い切ります。それゆえ、人間の行なってきた「政治」とは人間のすべての行動、著者の言葉を用いるならば「卑俗なものから高尚なもの、邪悪なものから神聖なるもの、醜悪なものから美麗なもの」を拡大して写し出す鏡であり、政治について考察することは、人間性を凝視することに他なりません。


 著者は広範囲におよぶ政治哲学の古典から、これぞという一句を選んで、抽象的にではなく、具体的な人間そのもの、人間性を透視する考察に力を傾注します。読者は読むごとに哲学的な箴言が具体的な実感帯びてときには身につまされるような恐怖とともに体に切り入ることを感じるでしょう。それは著者が心底、感心し、感動した言々句々を取り上げて、政治や人間について自らの血肉になった洞察を読者と分かち合うべく凝縮されたエッセンスが明快な文章で表現されているからです。この本には著者の感動が詰まっているのです。


 また、著者は人類の負の遺産ともいえるような著作をも取り上げることをためらいません。
それはまさに、政治を通して現れた人間の極限の「卑俗なもの、醜悪なもの、邪悪なもの」を考察の対象にするためです。著者は明快に保守主義の立場に立ちますが、しかし、政治的な古典から知恵を引き出すにあたって、レディ・メイドの「保守主義イデオロギー」という色眼鏡をかけずに、人間性を洞察するため、いわゆる「保守主義的な名著」だけからだけではなく、その立場から見れば「悪書」に分類されるような書物からも鋭い人間知を発掘することに成功しています。
 保守主義、といいましたが、著者の保守主義を定義する言葉は簡潔です。


 「危機の際に『祖国』といって我々が意識している国家とは、過去、現在、未来を貫く垂直的共同体に他なりません。(中略)この垂直的共同体としての国家を強く意識し、守ろうとする立場を『保守主義』と呼びます」。


 エドマンド・バークの名句に付した著者の解説の中からの言葉です。バークはまた、国家をモラル・エッセンスと呼んでいます。そのため、ただ時の政府を国家とは呼びません。ときには、ナチス・ドイツのように、北朝鮮金正日のように、国家を汚す独裁者が現れます。もし国家に忠誠を尽くすことが、時の権力者の体制に順応することを意味するなら、このような独裁国家に生まれたものの忠義を守るとは、善とは、上からの命令があれば、どのような悪事でも行なうことになります。


 しかし、国家とは、モラル・エッセンスであり、過去、現在、未来を貫くものであると洞察するなら、そして祖国が長い歴史を持つことを意識するならば、祖国への忠義とは、そのような悪を断固として拒絶することに他なりません。そして、そのような時の支配者こそが、むしろ祖国への反逆者であることを洞察する必要があります。著者はこのことを「良き市民」と「良き人」の区別を明確にしながら説明します。ナチス・ドイツで体制に順応した「良き市民」と、伝統的なルールに固守して「良き人」であろうと努めたためにナチス・ドイツからは「反逆者」と見なされた人との対比です。


 そして著者はいいます。
アリストテレスの指摘したように法や国家は、我々人間が善く生きるために必要とされ、築かれたものです。しかしながら、既存の法や国家に従うことが善く生きることへと必ずしもつながりません。それゆえに国家の中に生活し、法に服従していることに安住するのではなく、我々は『善き市民』がそのまま『善き人』であるという『善き体制』を志向し続けなければならないのです」。


 この本の副題は「正義が人を殺すとき」です。しかし、上記のような言葉を読むとき、読者は著者が鋭い正義の感覚を備えていることを読み取ることになるでしょう。そして、このような正義の感覚がなければ、「正義が人を殺す」ことを不正義と糾弾できるはずがありません。


 このことについて少し、説明しましょう。
副題にもあるように、この本には、恣意的に捏造された「正義」が大量に人を虐殺してきた事例に満ちています。このような「正義」に思いを潜めるとき、バークの次の言葉は印象的です。
「社会全体の理念的な善のためにそれの特定部分を犠牲にする政策は、すべてが極めて胡散臭い」。著者は、社会的な善、「正義」のために、共産主義が資本家を、ナチス・ドイツユダヤ人という特定の対象を狙って、虐殺したテロルの構図を明快に説いています。人間は不合理で多様な存在である、というのがこの本の通奏低音になっており、イデオロギーによって、イデオロギーに合わない多様な現状をイデオロギーに合わすべく、「不合理な側面」を抹殺するために、人々の虐殺を辞さない事例に著者は鋭い目を向けます。


 この場合、特定の対象に「不正義」を行なうことを「正義」とし、そのような「不正義」を「正義」と見立てるため「社会全体の理念的な正義」というトリックが使われるわけですが、要は全体的な社会の不満の吐き出し口を「一部の少数者」へ注がせようと民衆を煽ることで、政権を掌握しようと企図する者の多数の忠誠を獲得しようという意図にこのトリックは発するとみなせます(もちろん、そのような企図者は、建前だけではなく、そのようなイデオロギーを実際に正義と感じていることが多々あります)。


 しかし、このような政権が権力を握り、「不正義」を犯すことが常態になれば、その対象は「一部の少数者」から全国民へと変容することは必然です。
このような「特定の社会的目的を正義」とするような「積極的な正義」の樹立はしばしば「消極的正義」を破ることにつながります。消極的な正義とは「人を殺すな」とか「人のものを盗むな」という「個人の貪欲」を抑制する性質を持ったものです。
バークも美徳の10のうち9までが、個人の貪欲を抑制する性質のものだと述べています。そしてこのような抑制や今までで確定されてきた原理(伝統的ルール)というものについて何も考えず抽象的にヒューマニティーなどを正義の原理にすると、人は「正義」から最悪の犯罪を犯すようになり、こうなると明日には無実の人々を殺害するだろうと述べています。


 キケロも『義務について』の中で、「正義に課せられた第一の任務は、不法をもって傷つけられないかぎり、誰にも害を加えないことであり、第二に、公有物を公共のために、私物をその私有者のために、使用させることである」と述べており、ここではまさに正義とはむしろ抑制的な性質のものとされていることが明白です。
 

 何か尤もらしい口実により、このような正義のルールが破られようとしているとき、我々はそのような口実を下に「不正義」が行なわれるに違いないと察する必要があるのです。


 このような真の正義について、著者はキケロの『法律について』を取り上げて説明しています。著者は「我々は『善き市民』がそのまま『善き人』であるという『善き体制』を志向し続けなければならないのです」といいます。しかし、著者はあえて、その「善き体制」とは何かについて単純な答えを出そうとはしません。我々は本を読みながら著者とともに考えるというという姿勢に自ずと導かれていくことになります。(堺正貴)

「善き体制」とは「善悪がそのままあらわれる世の中」。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20110116#1295186694
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20110327#1301236717
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20080101#1199194600