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宝塚「白バラのプリンス」逝く 春日野八千代さん

宝塚少女歌劇団時代の1929年に初舞台を踏んだ。

 戦後の46年4月、進駐軍に接収されていた宝塚大劇場の再開第1回公演「カルメン」にホセ役で主演して以来、雪組組長兼主役スターとして宝塚復興の大黒柱に。

訃報:「白バラのプリンス」春日野八千代さん死去96歳

 1915年、神戸市生まれ。28年に宝塚音楽歌劇学校(現宝塚音楽学校)に入学、翌年の「春のをどり」で初舞台。「勧進帳」の義経などの役で売り出し、気品ある男役として人気を集めた。


 戦後は、娘役の故・乙羽信子さんと“ゴールデンコンビ”を組んで活躍。

宝塚永遠の男役スター、春日野八千代さん死去 96歳

後日、宝塚バウホールで「宝塚歌劇団葬」を執り行う予定。

春日野八千代さん逝く 鳳蘭さん「先生の言葉『舞台は品格よ』は一生忘れない」

【評伝】春日野八千代さん死去「男役の美学」を作り上げた

 「ヨッちゃん(春日野さんの愛称)がいなかったら、今の宝塚はなかった。(アメリカの)進駐軍に接取されていた宝塚大劇場が、戦後まもない昭和21年(4月22日)に再開できたのは、進駐軍の上官がヨッちゃんの踊りを観て感激したからなんだよ」と、演出家の内海重典さんは生前に話していた。“白バラのプリンス”とたたえられた舞台姿の美しさは、洋の東西を超えて魅了したようだ。

春日野八千代さん死去:宝塚歌劇を象徴する存在

 1928年、14倍の難関を突破し宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)に入学。32年、小夜福子の代役をした時「せりふをおぼえていないから」と台本を持って舞台に出て「大胆なコ」と話題になった。早くから注目され宝塚少女歌劇(当時)の創設者、阪急電鉄小林一三社長が33年、星組を新設したのも春日野さんを売り出すためだった。

宝塚歌劇団の戦前戦後の伝統がつながったのは春日野さんがいたからといわれる。

宝塚人気男役 春日野八千代さん死去 NHKニュース

春日野さんは神戸市出身で、小学校を卒業したあと、昭和3年、当時の「宝塚音楽歌劇学校」、今の宝塚音楽学校に入り、そのよくとし「春のをどり」で初舞台を踏みました。
戦前、戦後を通じて宝塚歌劇団月組星組雪組など、すべての組で主役を務め、端正な顔だちと美しさを兼ね備えた男役のスターとして人気を集めました。

春日野さんは、90歳を過ぎても現役最年長の劇団の生徒として活躍を続けました。

春日野さんは3年前に宝塚の劇場で行われたトークショーに出演したのが俳優としては最後の活動で、29日午前10時34分、大阪市内の病院で肺炎のため亡くなりました。

春日野八千代さん死去:宝塚現役最年長 八千草薫さんら談話 

 関係者によると、春日野さんは宝塚市内の自宅で、約1年前から酸素吸入ボンベを携帯する生活を送っていたが今年3月ごろまでは元気だった。その後、体調を崩して入退院を繰り返し、7月の入院時には意識があまりない状態だったという。

 1928年4月、宝塚音楽歌劇学校(現宝塚音楽学校)に入学。翌29年に「春のをどり」の娘役で初舞台を踏み、代役を務めたのをきっかけに32年、男役に転じた。

戦時中に宝塚大劇場が閉鎖された際、最後の公演「翼の決戦」(44年)に主演。劇場から最寄り駅までファンが約1キロの長蛇の列を作り、警官が出動する騒ぎになったことも。

 2004年の花組公演「飛翔無限」まで定期公演に出演。その後も08年まで「宝塚舞踊会」に出るなど生涯現役を貫いた。最後に公の場に姿を見せたのは宝塚歌劇95周年記念「百年への道」(09年)のトークコーナー。

 ▼八千草薫(47年宝塚入団、「源氏物語」「ワルシャワの恋の物語」などで共演)気品のある美しいたたずまいは宝塚そのもので、いつまでも歌劇団にいていただけるものと勝手に思っていました。

入団5年目の33年には春日野をトップに据えるため星組が新設された。戦後の公演再開時には雪組組長。50年からは専科所属に。49年に歌劇団理事、06年6月から同名誉理事。日舞の名取名は「花柳禄八千代」。79年に紫綬褒章、86年に勲四等宝冠章を受章。00年には宝塚市名誉市民第1号に。