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哲学者・適菜収 古典を読もう

 今も昔も時代特有の迷妄が存在するが、それを克服するための処方箋はひとつしかない。古典を読むことである。過去に学ぶことにより現在の歪(ゆが)みを軌道修正するわけだ。


 ドイツの哲学者ショウペンハウエル(1788〜1860年)は、精神のための清涼剤として、ギリシャ、ローマの古典の読書にまさるものはないと言う。その理由として「古典語の完成度」と「いく千年の歳月にも傷つけられぬ作品を生み出した精神の偉大さ」の2つを挙げたうえで、当時のドイツ人に痛烈な批判を浴びせた。


 「一般読者の愚かさはまったく話にならぬほどである。あらゆる時代、あらゆる国々には、それぞれ比類なき高貴な天才がいる。ところが彼ら読者は、この天才のものをさしおいて、毎日のように出版される凡俗の駄書、毎年はえのように無数に増えて来る駄書を読もうとする。その理由はただ、それが新しく印刷され、インクの跡もなまなましいということに尽きるのである」(『読書について』)


 ショウペンハウエルは「多数の読者がそのつどむさぼり読むもの」に手を出さずに、「比類なく卓越した精神の持ち主」「あらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才」の作品だけを熟読すべきであると言う。


 こうした主張に対し「頑迷固陋(ころう)な教養主義だ」「ディレッタンティズム(衒学(げんがく)趣味)だ」と反発する向きもあるだろう。しかし、太古の昔から同様の反発はあったのである。


 そしていつの時代においても文化を生み出してきたのは、こうした批判を無視し、ひたすら古典を読み、古典を手本として模倣し、古典の形をなぞり、古典という共同体の井戸から規範を汲(く)み取ることに従事してきた人々だった。


 「我々が徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである。知るためには学ぶべきである。だが知るといっても真の意味で知られるのは、ただすでに考えぬかれたことだけである」(同)


 現在の諸状況に違和感を覚えているとしたら、その解決策はたいてい古典に含まれている。


 わが国にもすぐれた古典が山ほどある。『古事記』『日本書紀』といった史書、『万葉集』『古今和歌集』といった歌集、『土佐日記』『枕草子』『源氏物語』といった古典文学など枚挙に暇(いとま)がない。これらを読みこなすためには、優先順位をつけなければならない。情報過多の時代である。最先端の情報には多くのゴミが混ざっている。よって、こうした時代においては、知らなくてもいいことを知らずに済ますための技術、読まなくていいものを読まないで済ますための努力が必要だ。


 そして、歴史の地層により濾過(ろか)され、磨きぬかれた古典を読む時間を強制的にでも作るべきだろう。そのためには読書時間の半分以上を古典にあてるのはどうか?


 いわゆる「読書論」は星の数ほど存在するが、歴史上のあらゆる優れた人物が指摘しているのは、多読ではなく精選である。


 「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」(同)


 悪書は時間だけでなく精神の健康をも奪う。

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