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【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 体罰禁止がもたらすもの

 そこで、仮に「前近代」と「近代」の区別を、社会学の通例にしたがって次のように考えよう。「前近代社会」の基軸は人と人との上下を含んだ人格的な関係にあり、「近代社会」の基軸は平等な契約関係にある。すると、教師と生徒が上下関係を伴いつつ人格的に触れあい、ぶつかりあい、交差するなどという教育は「前近代的」ということになる。近代社会の教育は、教師と生徒(保護者)の契約関係にあり、この中には、生徒の権利保護のために教師の体罰禁止も含まれよう。ここでは、教師と生徒の関係は、人格的な信頼関係に基づくのではなく、立場の相違からくる権力関係と双方の権利・義務の関係となる。


 私には、このようなものは教育だとは思われない。そもそもここに「前近代」と「近代」を持ち出すことも場違いであるが、仮にこの言葉を使えば、教育とはどこまでいっても「前近代的」であるほかなかろう。教師と生徒の間の双方の立場を踏まえた上での人格的な信頼関係こそが教育の基盤であるほかあるまい。


 したがって、信頼関係のすでに崩壊したところで体罰を行うことは許されない。あるいは、体罰によって信頼関係が崩壊するならば、これもまた許されない。

 許されないのは契約上の権利や義務の問題ではなく、信頼を旨とする教育が成立しなくなるからだ。体罰を行うには、教師の側にもそれなりの覚悟が必要であって、それがなければ行うべきでない。


 にもかかわらず、今日、この「信頼関係」を築くことそのものが相当に困難になっている。しかも、それは教師と生徒の関係だけではなく、友人同士、さらに家族も同じである。


 かつては、教師に激しくしかられたり、あるいはいじめにあったりすれば、友人や先輩が相談にのり、家族や親類が支え、年長者が助力になったりしたものである。確かに、家族はあまりに密度が高すぎるのでかえって相談しがたいものはあろう。親には話しにくいものである。しかしそれでも、親や兄弟のまなざしを感じることができれば、何とか自らを立て直したものであった。今日、そういう「信頼」できる関係の場が失われてしまっているようにみえる。だから問題は、学校も家庭も地域もむしろ「近代化」してしまって、「前近代的」な人間同士の触れ合う場がなくなってしまった点にある。

 今日、体罰教師の告発も、いじめの告発も、学校や教育委員会を通り越して、直接に地方自治体やマスコミにいってしまう。そこで首長がでてきて直接に学校や教育委員会を批判して事態を動かそうとする。例外的にはこのようなことが必要な事態もあろうとは思う。しかし、この風潮が一般化するのは問題であろう。


 「市民」からの苦情や告発が直接に首長に届く。「市民」の代表であり、行政の長である首長が、学校や教育委員会を批判する、という構図ができてしまうと、もっとも混乱するのは学校の現場である。すでにほとんど理不尽な不満を学校にぶつけてくる「クレーマー」は続出している。そこへ、学校や教師が悪者とみなされることになる。こうなると、教育の根本である、「信頼」はますます失われるだろう。子供たちが学校に不信感を抱くことを奨励するようなものであろう。ますます学校は荒れるだろう。

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