『新編 漢詩読本』
P154
まことにこの世を辞せねばならぬ最期には、どうしても真実の自己が露顕して、言葉も短い迫切なものになる。散文的より韻語的になる。臨終の語、辞世の語を調べてみると、東洋の方に韻語的なものが多い。西洋の人物の方は多く散文的であるが、それでもやはり臨終の言葉には韻致が少なくない。西洋近代思想の先駆として名高い不覊放縦を極めたルソーも、妻のテレーズ・ルヴァスールに「何と綺麗に澄んだ空だ、私は彼処に往くのだ」と囁いている。ゲーテが、「窓を明けて、光を、もっと光を!」と云ったのは周知の話である。ドストエフスキーはシベリア流刑時代から離さなかった古い聖書を妻に読ませ、イエスがヨハネに「我を引留めるな」という所で、「そうだよ、私を引留めるな! 私の時は迫った。死なねばならぬ!」と言った。
日本でもシナでも、臨終にとりみだすことを最も恥とし、したがって教養ある人々ほど、辞世に自己の真実の善いところを遺すことを考えて、平生から用意しておく者も少なくない。しかしそれは虚栄であり、かえって真実を失うものといわねばならぬ。それならば芭蕉のように「きのふの発句は今日の辞世。けふの発句は明日の辞世、われ生涯いひすてし句々、一句として辞世ならざるはなし」(『花屋日記』)と去来らに告げたあの心構えが真実である。盤珪禅師(元禄六年没、七十二)の臨終もこれと全く符合している。
しかし、学問求道に体達した人々の中には、臨終に肝銘を覚える韻語や、立派な詩偈を遺した人々がはなはだ多い。日本人が平生尊敬する偉大な人物から、特に勝れた辞世の言葉を聴きたいと願うのももっともであると思う。
天童正覚、有名な宏智(わんし)禅師、南宋曹洞禅の大宗である。師は浙江の天童山(景徳寺)に住むこと三十年、従学するもの千を越え、道化四方に振うた。臨終の前、下山して諸方の檀家に別れを告げ、山に還って衣食平常に変わらず。十月八日(紹興二十七年、西紀一一五七年)沐浴して衣を更え、端座して筆を執り、大慧に後事を嘱し、偈を書いて筆を措き、そのまま遷化(せんげ)した。彼は生滅を超えた純一玄妙の一心を以て自我とし、随処に解脱し、歩々光明の中を行くを旨とした。王陽明は臨終に遺言を問う弟子に向って、「此心光明、亦復(またまた)何をか言わんや」と語って永眠したが、哲人の境地は能く契合する。その天童正覚臨終の一偈とは、
夢幻空華 夢幻 空華
六十七年 六十七年
白鳥湮没 白鳥 湮(いん)没して
秋水連天 秋水 天につらなる
(一)湮は「沈む」。
何という美しく、清く、大きく、神秘な作であろう。若山牧水の歌に、「白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まず漂ふ」というのがあるが、これにくらべると、また問題にならない。
夢か幻か、病眼に浮かぶ幻の花か。
わが六十七年の生涯よ。
いま我れ世を去るその様は、
くっきりと、空の青、水の青にも染まず浮かんでいた白鳥が、
一瞬その影を没して、水や空、空や水、ただ水天一碧の如きである。
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