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 この1966年に生まれた女性芸能人は、小泉今日子(55才)、斉藤由貴(54才)、広瀬香美(55才)、三田寛子(55才)、江角マキコ(54才)、国生さゆり(54才)、鈴木保奈美(54才)など。

 さらに、秋篠宮紀子さま(54才)と長女の眞子さま(29才)の婚約内定者である小室圭さん(29才)の母・小室佳代さん(54才)も丙午生まれである。

 そんな2人が20代の1991年、ソ連が崩壊するとともに日本のバブル経済も崩壊が加速していく。1966年生まれの漫画家の西炯子さん(54才)はこう振り返る。

「バブルが弾けると、男性が以前のように女性にお金を使えなくなり、女性の装いがどんどん地味になりました。経済が落ち込むと割を食うのは女性と子供ですよね……。社会が貧しくなったことを肌で感じました」(西さん)

 この年、紀子さまは長女の眞子さまを出産される。

命名されたのは秋篠宮さまでした。眞子さまの『眞』の字には“自然のまま、ありのまま”という意味がこめられました」(皇室記者)

 眞子さまのご生誕からさかのぼること2週間余り、10月5日に生まれたのが、小室さんだ。紀子さまの出産に向けて国民の祝福ムードが高まるなかで小室さんは産声を上げたのだった。

 佳代さんももちろん、親近感をこめて、紀子さまのご出産の報道を見つめていた1人だろう。

 バブルが崩壊した日本は、この頃から暗い影に覆われるようになる。ここからが紀子さまと佳代さんの子育ての時代である。

 1995年に阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件が発生し、1997年には神戸で連続児童殺傷事件が起きた。

 陰惨な事件の発生とともに、一般の人の経済状況も苦しくなっていった。相模女子大学大学院特任教授でジャーナリストの白河桃子さんはこう言う。

「バブル後にやってきた就職氷河期では、前の時代から打って変わったように、新卒の男性すら正社員での就職が難しくなり、育児後の女性の再雇用はなおさら厳しくなりました。バブル後の『失われた10年』で経済は疲弊し、日本はますます貧しくなりました」(白河さん)

 暗い世相のなか、国民に光を与えたのが皇室だった。

 1993年6月に皇太子さま(当時)と雅子さまが世紀のロイヤルウエディングを果たされ、1994年には紀子さまが佳子さまを出産された。

 1995年の阪神・淡路大震災後には、当時の天皇皇后両陛下が被災地を訪問して被災者を励まし、すくすくと成長される眞子さまと佳子さまの姿は国民にやすらぎを与えた。

 その背後で、紀子さま眞子さまを厳しく育てられた。

眞子さまは、将来国民の前に立って公務を担うお立場でした。一般家庭から皇室に嫁がれた紀子さまは、しっかり育て上げなければならないという責任感から、眞子さまに厳しく接されたと聞きます。

 学習院初等科時代は、眞子さまが花壇の縁のブロックの上を歩いただけですぐに厳しく注意されたとか。それもこれも“娘に皇族としての自覚を持って行動してもらうため、私がしっかりしなければ”というご意識からでしょう」(前出・皇室記者)

 一方の佳代さんは、多方面からお金を工面して、惜しげもなく小室さんの教育に投資した。国立音楽大学附属小学校の6年間の学費は総額約400万円、中高一貫のカナディアン・インターナショナルスクールの6年間の学費は総額1515万円におよんだといわれる。

 時代の移り変わりとともに、親と子供の関係性が変化していったと語るのは西さんだ。

「昔は子供が多かったこともあり、忙しい親が1人の子供にかけられる時間が少なかったように思います。

 たとえば『一姫二太郎』という言葉は、先に姉が生まれれば、続いて生まれる弟たちの面倒を見てくれるという意味です。実際に私が小さい頃は、おんぶひもで4つ下の弟を背負った状態で、子供同士が集まって遊んでいました。その間に親は仕事をしていたんですね。

 でもいまは、日本が豊かになったことと少子化が重なって、親が子供に時間を使うようになりました。塾でも習い事でも、親が積極的に子供にかかわることで、子供を“よりよく仕上げる”ことに力を入れている印象があります」(西さん)

 子育てを完璧にしたいという母親の思いか、子供を思い通りに育てたいという母親のエゴか。もはや母親自身にも、どちらが本心なのかわからないのかもしれない。

 学習院初等科から中等科、高等科と進学された眞子さまは2010年4月、皇族として初めて、国際基督教大学ICU)に入学された。

 そのキャンパスで眞子さまが出会われ、交際を始められたのが小室さんだった。

 大学院在学中にご結婚して子供を産まれた紀子さまと、短大卒業後から3年後に結婚して小室さんを出産した佳代さん。2人の丙午の女性の人生は、娘と息子を通じて、このとき初めて交錯した。

 眞子さまは2017年9月に小室さんとの婚約内定を正式発表された。だがその3か月後に発覚した小室家の金銭トラブルの影響で結婚は暗礁に乗り上げ、いまも先行きは見えない。

羽田空港の国際線ロビーに詰めかけた、50人近い報道陣は、IOCトーマス・バッハ会長の到着を今か今かと待ちわびていた。

だが、飛行機の到着から1時間が過ぎても姿を現さないバッハ会長――。なんと、到着ロビーを通らず“裏口”から空港を脱出していたのだ!

「バッハ会長は、先に到着したコーツ調整委員長と同じく5つ星ホテル『The Okura Tokyo』に向かいました。来日する『IOCファミリー』のために4つ星~5つ星のホテル計1千600室が確保されているといわれています」(社会部記者)

「エリート意識が強く、ミーハー気質なIOC委員たちは、王族や貴族が大好きだといわれており、開催都市の招致でも各国がこぞって王族を駆り出していたほどです。バッハ会長は、大ひんしゅくを買っているにもかかわらず、平和希求の取り組みを訴えるとして16日に広島を訪問する予定です。日本国民の反感はいっさい意に介していない様子ですから、皇室にもどんな要求を突きつけてくるか、予想もつきません」(前出・皇室担当記者)

天皇陛下は7月6日、お住まいの赤坂御所で、1回目のワクチン接種を受けられた。ワクチン接種が公表されたのは陛下お一人だけだった。

「おそらく雅子さまも同時に接種されたはずですが、公表されませんでした。ワクチン接種は『個人情報』であり、天皇陛下だけは象徴としての地位にあることから公表に至ったとの説明でした。しかし、上皇ご夫妻の接種はすぐに新聞社に報じられており、このときは宮内庁も隠し通そうとはしていないのです。あえて雅子さまがワクチンを接種されたかどうか、わからないようにしているように思えてなりません。今回、宮内庁病院ではなく赤坂御所での接種でした。両陛下が宮内庁病院のある皇居へ車で移動すれば報道陣に知られてしまうため、赤坂御所での接種になったのかもしれません」(宮内庁関係者)

そこまでして、なぜ雅子さまのワクチン接種を公にしないのか。そこには陛下の深い配慮があるのではないかというのだ。

「原則的に、政府から要請があれば両陛下はIOC幹部らとの面会に応じざるをえません。しかし、ワクチン接種が済んでいないとなれば話は別。感染の危険性を回避する必要があります。すなわち、もしIOC側が頑強に“国民の理解を得られないような”接待要求をしてきた場合に抵抗するための“最後の手段”として、雅子さまの接種を非公表とされたのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)

天皇陛下は、東京オリンピックパラリンピックの名誉総裁に就任していますが、関係者によりますと、今月23日の夜、東京の国立競技場で行われる東京オリンピックの開会式にお一人で出席し、開会を宣言される見通しとなりました。

開会式は、新型コロナウイルスの感染の再拡大の影響で無観客で行われますが、天皇陛下は各国の選手や大会関係者のほか、海外の要人らとともに式典に臨まれます。

天皇陛下は、また、開会式の前日、皇居・宮殿でバッハ会長などIOC国際オリンピック委員会の幹部らの表敬訪問を受けるほか、開会式当日には同じく宮殿で外国の元首クラスの要人などから順番にあいさつを受けられるということです。

一方、昭和39年の東京オリンピックなど日本で開かれた過去のオリンピックでは、天皇や皇族が会場に出向いて競技を観戦してきましたが、多くの競技が無観客で行われる今回は、皇室による観戦もすべて見送られる見通しです。

 天皇ご一家が移り住まれる予定の皇居・旧吹上仙洞御所の改修工事が終了し、宮内庁が14日、報道陣に公開した。上皇ご夫妻が長年暮らしていた建物で、新しい御所として使うため、約1年をかけて空調などの改修工事を実施した。ご一家は9月中に、東京・元赤坂の赤坂御所から引っ越す。

 新しい御所は鉄筋コンクリート造りで延べ面積は約5290平方m。ご一家の私室部分、賓客と対面する広間や応接室などがある接遇部分、側近が控える事務部分が中庭を囲うように並ぶ。約8億7千万円をかけて空調などの設備を改修、一部の壁紙を張り替えるなどした。従来の建物を極力活用し、増改築はしなかった。

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「予定通り行かない。番狂わせが面白い。」(トート閣下)


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#天皇家

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「朝廷に嘆願書を提出するために発砲しつつ御所に近づいている長州藩兵を会津・桑名・薩摩連合軍が撃退した(禁門の変)。その翌日7月20日(8月21日)の夜、宮中に不審者が300人以上侵入するという騒ぎが起こり、パニックの中で睦仁親王が一時卒倒した。長州藩に内通したとの嫌疑で外祖父・中山忠能に蟄居処分が下ることとなる。」(ウィキペディア明治天皇」)

巻き返しを計る「尊皇攘夷」勢力は改めて孝明天皇に強く働きかけ、孝明天皇不本意ながら8月13日に「大和行幸」の勅を発しました。大和行幸は大和の孝明天皇神武天皇陵と春日大社伊勢神宮にまで行幸するものですが、これは「尊皇攘夷」勢力によって企てられた天皇による攘夷親征の計画でした。

攘夷親征とは、征夷大将軍徳川家茂を通り越して天皇が直接大将となって外国勢力の夷狄を打ち払うというものです。天皇がたてば必然的に徳川幕府も攘夷の軍事行動を起こさなくてはならないですが、同時に天皇が直接攘夷に出るということは征夷大将軍徳川幕府は不要ということです。

大和行幸の勅からの攘夷倒幕事件を、時系列から順を追うと、
天誅組の変、②天狗党の乱、③池田屋事件、④禁門の変、これらが一連のもので連動しているのは明らかでしょう。

このカウンターが「八月一八日の政変」で、この後「8月26日、孝明天皇は『これまではいろいろ真偽の分明でないものもあったが、8月18日以後に発する勅命は真実私の意志であるから、そう心得よ』と在京の諸大名に伝えた 」(ウィキペディア「八月一八日の政変」)とあります。

孝明天皇の勅命を偽造したり本意に反する勅命を出させていた朝廷内の勢力が「天誅組」の上部組織で、倒幕運動の本体の「天忠党」と見受けられます。

天忠党の総督は中山忠伊とあり、その下には地下組織である天忠党の下部組織と見受けられるものとそこに属する人名があります。それを見れば今回の記事本文で出てきた組織と人名がほぼ全て出ています。例えば水戸藩勤王派の藤田東湖、小四郎、武田耕雲斎長州藩正義党の久坂玄瑞土佐藩勤王党の吉村寅太郎、と言った具合です。

この下部組織の人名には西郷隆盛坂本龍馬の名もあり、維新の英傑の名がずらりと並びます。この天忠党の組織図と実際に記録されている事件はピッタリと符合し、全ての攘夷倒幕運動の裏にあったその本体が天忠党だったと見るのが妥当なのです。

孝明天皇を、朝廷を左右し、そして全国の志士を動かしたその力の源泉は、天忠党総督中山忠伊が光格天皇の皇子ならばその血統でしょう。しかしそれ以上に、自刃で分かるように、忠伊に身命を賭した尋常ならざる覚悟と裂帛の思いがあったからでしょう。忠伊の持つ熱量が人々を動かしたと見るべきでしょう。

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元治元年7月19日(1864年8月20日)、朝廷に嘆願書を提出するために発砲しつつ御所に近づいている長州藩兵を会津・桑名・薩摩連合軍が撃退した(禁門の変)。その翌日7月20日(8月21日)の夜、宮中に不審者が300人以上侵入するという騒動が起こり、パニックの中で睦仁親王が一時卒倒した。「長州藩に内通した」との嫌疑で外祖父の中山忠能に蟄居処分が下ることとなる。

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8月26日、孝明天皇は「これまではいろいろ真偽の分明でないものもあったが、8月18日以後に発する勅命は真実私の意志であるから、そう心得よ」と在京の諸大名に伝えた。

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#徳川斉昭#烈公#島津斉彬
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慶子(忠伊長女ナルモ故有忠能養女トス)

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権大納言中山忠能の次女で、母は平戸藩主・松浦清(靜山)の十一女・愛子。侯爵を授けられた中山忠愛は長兄。天誅組の主将・中山忠光は同母弟。従一位勲一等。

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中山家に、中山忠能の曽祖父である中山愛親に、光格天皇から密かに討幕の密勅が下されていたのです。この密勅が後に倒幕の王政復古としての明治維新へと繋がるのです。
 逆に言うと明治維新への展開や維新の中核組織天忠党のその後の展開を見れば、“①光格天皇から中山愛親らへ「討幕の密勅」が下された ②天忠党総督の中山忠伊は光格天皇が中山家に養子に出した自分の皇子”。このことは事実と見る以外にないのです。そうでないと明治維新に関わる事物の辻褄や整合性がとれないのです。

1863年8月の孝明天皇大和行幸の勅をうけて決起挙兵したのが「天誅組」で、天忠党の下部組織です。この天誅組の大幹部で総裁の一人であったのが藤本鉄石です。東吉野村のホームページには、藤本鉄石が壮絶な討ち死にをする前日に残した辞世の句となった3首を載せています。その一つが次です。

八咫烏 みちびけよかし 大君の 事しいそしむ 御軍(みいくさ)のため」

倒幕勢力の本体で明治維新の核になった組織が天忠党であり、その筆頭の同盟者が水戸の徳川斉昭であり、次いでの同盟者が大奥を掌握していた篤姫の義父の島津斉彬だったわけです。徳川幕府内に討幕の中心勢力があったのです。そして同盟者の坂上一族とは征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫で、大阪平野郷をその本拠地としており、朱印船貿易を取り仕切っていたようです。

貴嶺会の天忠党図を見れば天忠党の本部は朝廷内に決起した討幕の軍隊組織だったと見えます。その天忠党の総督の初代、もしくは天忠党組織の魁となった人物が中山愛親だと分かります。この座を中山家の忠尹、忠頼、忠伊が引き継ぎ、忠英(秀)へ引き渡されたのが記されています。

光格天皇は父君に尊号を贈り地位をあげようとし、幕府に諮りますが同意を得ず、逆に幕府から呼び出しを受けます。1783年に光格天皇の意向を実現すべく江戸に向かったのが、側近の中山愛親正親町公明の二名です。二人は老中の松平定信と激しくやり合いますが、天皇の意向は拒絶された上、二人は幕府から謹慎蟄居に処罰されたのです。その後の展開は貴嶺会の情報と「先祖は御所のウォーリアーズ」記事を参照すると次のようになりそうです。

処罰された二人は憤激しますが、この二人以上に憤激したのが光格天皇でした。三者の絆は深まり討幕運動へと走り出します。1794年光格天皇から密かに尊皇討幕の内勅が降ろされたのです。中山愛親たちは討幕の志士を募るべく奔走します。しかしこの動きを幕府側も見逃すはずもなく厳しい追求を受けます。この事態に1809年中山愛親の息子の中山忠尹は全責任を負い自害し事態を収拾させます。1864年の忠伊の自害の55年前に忠尹が自害していたのです。

討幕に殉じ自害した忠尹のことを重く見ていた光格天皇は、忠尹の息子忠頼に自らの皇子を養子に迎えるよう依願します。こうして中山家の養子に入った皇子が中山忠伊です。1820年改めて内勅が下され、討幕の地下組織天忠党が結成され、忠伊がその総督になったようなのです。

一方、正親町公明への処遇ですが、公明の息子の娘が光格天皇の後を継いだ仁孝天皇典侍に入り、仁孝天皇との皇子をもうけます。この皇子が後の孝明天皇です。つまり江戸で尊号問題を戦った中山愛親の家系に光格天皇の皇子が入り、正親町公明孝明天皇の母方の曽祖父となっているのです。

さて、ここで留意すべき点があります。明治維新の掛け声になったのが「尊皇攘夷」です。一方①光格天皇が密かに降ろした討幕内勅は1794年、②光格天皇の意思で忠伊が総督となり天忠党が結成されたのは1820年。①②それぞれ1853年のペリーの浦和来航のはるか前です。

そして内勅の内容は「尊皇倒幕」なのであって、そこには外国勢力を武力で排する「攘夷」は入っていないのです。つまり光格天皇と天忠党の本来の目的は「討幕」なのです。

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そこで光格天皇は幕府の許可なく独断で父に「太上天皇」の尊号を与えました。

老中・松平定信は御所の新築などで朝廷に苦渋を飲まされていました。そこで松平定信は強硬手段に出ます。関白正親町公明と前大納言中山愛親を逮捕して処分しました。松平定信は朝廷の高官であっても幕府の独断で処分できるとしたのです。結局「太上天皇」の尊号を送るのは中止になりました。