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リベラルの欺瞞とファシズム - 加藤陽子、長谷部恭男、東大 : 世に倦む日日

そして、岩波書店労組の委員長に挨拶のマイクをバトンタッチした。歩いていた私は、それを聞いてほうと思い、どんな顔か拝ませてもらおうと立ち止まったところ、これまた40代に見える若い、私の感覚では女の子という印象になる人物が、秘密保護法反対の話を喋り出した。が、感想を正直に言うと、肩書きから期待したものとは裏腹に、演説は素人丸出しで全く面白くなかった。言葉に知的興奮を感じなかった。縁故採用ばかりやっているから、こんな具合になるのだろうかと、不興に感じたのが本音である。

岩波書店も、小学館集英社と同じあこぎな銭儲けの本屋になり、夢のない腐って汚れた事業体に成り果てた。縁故入社した貴族社員の給料が高いだけが取り柄の会社だ。

このところ、ずっと考えているのは学閥の問題である。

東大が、貴族化と阿世化の果てに、リベラルではなく右翼の知識生産の工場となっている。その典型で象徴が、長谷部恭男の岩波新書憲法とは何か」であり、国会に参考人として出てきて秘密保護法を堂々と正当化した姿である。

長谷部恭男の岩波新書憲法とは何か」は、今年、私が読み込んだ数少ない本の一冊だ。今年の春、96条改定の政局の際、立憲主義と最近の憲法学理論について押さえる必要を感じ、樋口陽一と長谷部恭男の新書を何冊か繙いた。同じ立憲主義憲法学を唱えながら、秘密保護法についての立場は二人の間で180度違っている。弟子に当たる長谷部恭男を、師匠の樋口陽一が名指しで批判したという話を聞かない。

現在の長谷部恭男の機能と活躍を見て、それをカール・シュミットオットー・ケルロイターと擬えるのは、社会科学的に正鵠を射た認識というものだろう。シュミットを批判した長谷部恭男が、シュミットに逢着し、シュミットと同一化する様は、何とも皮肉で滑稽な現象であり、弁証法における対立物への転化と言うほかない。結局のところ、それはリベラルでもデモクラシーでもなく、まさに自由と民主主義を奪うところのファシズムイデオロギーに転化し、日本のファシズム化を進める道具となっている。東大法学部はファシズムの学舎となり、ファシズムの理論工場となり、岩波はファシズム理論をデリバリーする卸問屋と化してしまった。

「同じ立憲主義憲法学を唱えながら」とあるけど、『憲法とは何か』では騙せると思ってたところがその点を指摘されたので、今では立憲主義の立場ではないと自白している。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131204#1386153824