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「単なる進学校」と「名門進学校」の違い

 そもそも「受験勉強だけをさせればいい」と思っているような学校はない。どんな学校でも基本的には教養を重視している。しかし大学進学実績を残さないと、優秀な生徒が集まらない現実があるので、大学受験対策もおろそかにはできない。すでに実績が出ている学校はそこを強調しなくていいので、結果的に教養重視を打ち出すことができる。より本質的な教育に力を入れることができる。


 名門校の生徒たちはなんとなく理解する。先輩たちが積み上げてきた実績のおかげで、自分たちも目先の偏差値にとらわれない本質的な教育を受けることができたことを。自分たちだけそのメリットを享受して後輩に同じ環境を残してあげられないとしたらそれはかっこ悪い、自分の目標をあきらめないことで先輩たちからの恩を後輩に返すことができると考える。高校2年生までは親も先生も心配するほどにやんちゃをするが、最後の1年間は死にものぐるいでがんばる。それが名門校の生徒に共通する意識だ。


 数十年という時間をかけて、そのような学校文化を醸成できることが、名門校のすごいところなのだ。「単なる進学校」と「名門進学校」の違いはそこにある。生徒のおしりを叩いて進学実績を伸ばすのが「単なる進学校」、生徒自らが自分の目標をあきらめないという学校文化が醸成されているのが「名門進学校」ということだ。


 東大合格者数ランキングをネタにして、「筑駒だって、開成だって、たいした受験指導はしていない。学校がすごいんじゃなくて、もともと頭のいい生徒たちが集まっているだけだ」と揶揄する人たちが毎年いる。しかしそれでは「なぜ頭のいい子たちが集まるのか」の説明がつかない。大学進学実績と優秀な生徒が入学してくるかどうかは、卵と鶏の関係なのである。


 以下、拙著『中学受験という選択』から引用(一部改訂)する。


 絵に描いたような建学の精神や、形ばかりの伝統であればいらない。しかし、私立中高一貫校においては、建学の精神や伝統が脈々と受け継がれ、想像以上の教育力を発揮している。


 中高一貫校に限ったことではないが、私学においては、建学の精神に即したブレのない教育を続けると、いちしかそれが伝統となる。伝統とはもちろん無形のものである。しかし、確実に生徒たちに染みこむ。まるで良い蔵元にすみ着いた家付き酵母がそこでつくられる醤油や酒に独特の風味を与えるように、そこでしかつくることのできない「らしさ」もたらす。それが「○○○卒業生っぽい」などと世間にも認知されるようになる。かつては公立の学校にもこの機能があった。しかし「学校群制度」などにより伝統や誇りが軽視されてしまった。


 また、私学の教員は、転職をしない限りずっと同じ学校で教えつつける。教員にも「らしさ」が染みつく。シラバス(学習計画)で教員を縛らなくても、教員に裁量を与えておけば、自然に教員自身がその学校の教育を体現するようになる。そして脈々と受け継がれる。


 私学だって毎年生徒は入れ替わるし、教員も少しずつ新陳代謝する。しかし、建学の精神や伝統が文字通りDNAの役割を果たし、新しい生徒や教員にも、その学校の伝統の末端を担う一員としての役割や帰属意識を与える。


 こうして私学は、数十年、ときには百年以上のときを超え、動的平衡を保つ。


 その中でも強烈な威風を放つ学校は「名門」との称号を得るようになる。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140406#1396782189
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