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カントと居酒屋と漱石:熱狂を生む企業とは | 語られない競争戦略|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

 岩井先生は、カントの次の言葉を引かれた。


「自分及び他人を単に手段としてではなく、少なくとも単に手段とするのではなく、目的としても扱わなければならないということ」


 カントの道徳哲学の数少ない前提の1つは、理性的な存在は、幸福を求めて生存するという目的を、生まれながらにして持つということである。だから、他人を手段として「のみ」扱ってはならない。客を利益を得る手段としてのみ考える企業は、客からの信頼を得ることはない。私たちが目的を持つ存在であるという前提を、踏み外しているからである。利益のみを追求する医者に、己の身体を任せるものはいないことと一般である。


ジョブズが客を利益を得るための手段としてのみ、考えただろうか。いや、そうではない。少なくとも、そうではないように、1人の客としての私には感じられる。


 逆に、信頼できない会社を思い浮かべてみる。経営者がどんなに高尚な哲学を語っても、その会社が実際には客を利益の手段としてのみ考えていることは、すぐに知れる。それは商品自体、その広告、従業員の態度から、瞬時に察せられる。「そっちがその気なら、こっちも上手く使ってやろう」という気にさせ、信頼することを難しくする。

 先生はジョブズや日本の小倉昌男さんに言及された。「独立した哲学」とは、すなわち「利」から独立した哲学である。カントの言葉に沿って言うなら、法則(哲学)をそれ自体として志向することだけが、価格に還元できない尊敬を生む。別の目的(「利」)のための手段としてではなく、哲学そのものをその価値ゆえに志向する意図こそが、消費者からの尊敬を生むのである。ジョブズは、「利」を得る手段としてではなく、「機械と人間との豊かな関係」という哲学を、それ自体が価値あるものとして志向したのである(注2)。


 そして、その経営者の意図が表出した例として、従業員(トヨタの真面目な従業員)、社是(住友財閥の「浮利を追わず」)にも先生は触れられた。企業によって、信頼を勝ち得るために使える要素、接点は異なる。ただ、それを消費者に記憶させる手段として、物語については、特に重点を置いて先生は話された。


「その会社にまつわる神話、ストーリーというのがあったら非常に大きいと思います。そうすると会社というのは、本当に物語の主人公として、それは我々が小説を読んでね、有名な小説の主人公について、本当に生きた存在のように我々は語るわけだけど、それと同じようなこと。いいストーリーを作るとか、いい自伝を作るとか、人間っていうのは自伝ですよ、ほとんど。それを会社も持つというのは非常に重要かもしれない」


 人は情報を記憶する際、物語の形を取って来た。琵琶法師に人は垣をなし、南米のアマゾンでは、星の下で「語り部」を囲む(注3)。仏陀にせよ、キリストにせよ、彼らの経典は物語形式であり、その教えが箇条書きになっているわけではない。それが感情を掻き立て、もっとも記憶に残る情報のインプットの仕方であるからだ。客を利益として「のみ」みるのではなく、目的を持つものとして尊重する企業の意図は、物語を通して語られた場合、もっとも深く記憶される。

「日本の居酒屋とかバーとかね、イタリアであればバール。私はあまりバーには行かないんだけど、行くとママさんがいて、マスターがいて、そしてお客さんがいて。それである面でカウンターの向こうとカウンターのこっちが、いつの間にかある程度垣根が取れている」

「日本の居酒屋のような、ある意味でお客さんが店のコンテクストづくりに積極的に関わるというような、そういうお客さんをインボルブする仕組み。昔からある商売のやり方だけれど、売り手と買い手がどこかで共同のコンテクストを共有するような仕組み、それをうまく作れるかどうかというのが、かなり重要になっているのではないか」

 コンテクストとは、con-textureであり、語源をたどればto weave togetherである。売り手と買い手、互いの自伝が経緯の糸となり、織物のようにどちらの所有物でもない「共通の記憶」を作り出す。それがコンテクストである。


 それを作り出す仕組みに企業が注力することは、自分の所有物ではないものに投資をする面を持ち、「資本主義的でないもの」を標榜することになる。そこに「利」のみを求めない会社の顔が現れ、信頼が生まれる。客はその会社との交換を望むようになる。グーグルの逆説がここでも強められるのである。

 グーグルであれば「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」を目指し、ジョブズのアップルは「リベラルアーツとテクノロジーの融合」を社会にもたらすこと自体を志向した。


 これは、夏目漱石が理想と言ったものに他ならない。107年前の4月、上野の美術学校で、漱石はこう言った。


「理想とは何でもない。いかにして生存するがもっともよきかの問題に対して与えたる答案に過ぎんのであります。画家の画、文士の文、は皆この答案であります」(注5)


「どう生きるべきか」という人間の唯一の問題に、新しい答案を与えるからこそ、縁側で昼寝をしている文士は、派手に馬車を乗りまわす大臣や豪商に劣らない仕事であると言ったのだ。