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國分功一郎

基礎かどうかは分からないんですけど、哲学を勉強すると他の勉強がやりやすくなるとは思います。

森岡正博「現代日本の哲学をつまらなくしている三つの症候群について」(Life Studies Homepage)

 考えてみれば、大学院期間とは、いかにして重箱の隅をつつくような論文を生産するかという技術を学び、またそのような論文を発表することがとりもなおさず「倫理学」である、と信じ込まされる期間である。研究室では「−における」論文の生産にはげみ、自宅に帰ってはじめて、自分が本当にやりたい思索に没頭するという「二重生活」を送っている同僚もいる。
 しかしどう考えてもこれは健全な姿ではない。右に述べた四つの領域を包括して、便宜的に「倫理学」と呼んでおく。特定個人の文献研究は、倫理学の四つのシステムのなかに有機的に組み込まれてこそ意義がある。
 だが、現実には、アカデミズムは特定個人の文献研究へと縮減する。考えてみれば、それにはそれなりの理由があるのだ。ひとつには、特定個人の思想におぼれることの、麻薬のような快感がある。テクストを読む快感とでも言おうか。つまり、自分の頭では考えず、カントやヘーゲルに考えてもらって、自分でそのように考えたかのような錯覚を持つ快感。たとえば、ヘーゲルのようにものを考える快感。道元のようにものを考える快感。そしてそれは、その快感が哲学であり倫理学であり学問であるという錯覚へと結び付く。そしてついには、その快感が「安心」へと変わるという事態に至る。つまり、ヘーゲルを読み、ヘーゲルのように考えることで安心する、という事態に。この境地に至った人は、「ヘーゲルを読んでいればいい」とか、「親鸞でいい」という言い方をする。このことを専門用語では「ヘーゲルあるいは親鸞に即する」と言う。
 これが学問であろうか。しかし現実には、論文を書くときにまでそれが波及している。たとえば、「カントとともに次の問題を考えてみよう…」とか、「ヘーゲルを手がかりにして次の問題を考えてみよう…」と述べて、全編、カントやヘーゲルからの引用を切り貼りする。要するに自分の頭で問題を考えることを放棄し、カントやヘーゲルに考えてもらっている。うがったみかたをすれば、彼らは始めから、問題そのものについては責任回避ができるような形式で、論文を書いているのである。これを「手がかりにして」症候群と呼ぶことにする。
 では、彼らに、「カントがその問題についてどう考えているかはよく分かった。ならば、あなた自身はその問題についてどう考えているのですか?」と問うてみよう。しかし私たちは彼らの論文の末尾に、「我々は以上のような根本問題に直面した。それについてはまた次の機会に論じることとし、ここで筆を置きたいと思う」という文字列を発見するに終わるのみである。次の機会はいつ訪れるのであろうか。ひょっとしてこれは、自分の頭で問題そのものに取り組むことを、永遠に先のばしするという宣言文ではないのだろうか。そして、いわゆる学者たちは、これを暗黙のうちに承認しているのではないだろうか。これを私たちは「次の機会に」症候群と呼びたい。

Adam Takahashi

プラトンとか、ロックとか、ルソーとか。そこで思ったのが、思想は面白いのだけれど、抽象性の高い難しい文章とかではなくて・・」という思いは同じだった。そこから具体的・物質的な問題を論じる自然哲学史のほうに自分は向かったんだな、と。
http://luvlab.ex-tra.jp/2014/01/post-42.html

山本 浩司 - 「歴史家が紐解くプロジェクト・デザインいまむかし」 - ET Luv.Lab.

それね、2つあって、1つはきっかけの話でもう1つはあとから見て分かったことなんだけど。元々、日本の大学で政治思想というのを専攻していて、それはたまたまその先生の授業が面白かったのと、友達に薦められたからなんだけど、そうするとすごい有名な昔の哲学者の本とか読むわけですよ。プラトンとか、ロックとか、ルソーとか。そこで思ったのが、思想は面白いのだけれど、抽象性の高い難しい文章とかではなくて、もっと抽象性の低い、人の生き様とか価値観とか、生活にすごく根ざした価値とか、信条とか、そういうものに興味があるんだとわかって。

ゲーテの戯曲「ファウスト」の主人公は世界中の知識を手に入れようとする学者なんだけど、この主人公ファウストにむかって悪魔が言い放った一言がピッタリなんですよ。「ねえ、ファウスト、あらゆる理論は灰色で、緑なのは生命の黄金の樹だ」なんていうんです。

うん。そういうものが今も昔も日々の生活にはあって、そういうのを僕はきっと掴み出したいんだと思って。それはもしかしたら歴史研究である必要もないかも知れないけど、もし歴史研究をするのなら理論とか、難しい抽象性の高いことではなくて、うちのおじいさんが見せてくれたような毎日の生活の驚くような豊かさを歴史の深みから掬いだしてみたい。それで、歴史の研究なんだけれども、理論的なことじゃなくて経済とか商業とかビジネスやっている人達の、豊かさとかごたごたとかを勉強している、という感じかな。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150604#1433414220
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150604#1433414221

伝習録 - Wikipedia
伝習録

 徐愛は、次のように質問した。
「至善をただ心にのみ求めようとしたら、天下の物事の理を窮めつくせないと思います。」
 先生は、言われた。
「心は、理そのものである。天下で心以外に存する事はなく、心以外に存する理はない。」
 徐愛は、言った。
「父につかえる上での孝、君主につかえる上での忠、友人と交際する上での信、民を治める上での仁など、その間にいくつもの理があります。やはり、考察しなければならないと思われます。」
 先生は、嘆いて言われた。
「このような説の(真理の)覆いは、長かった。一言で分かるようなものではない。今しばらく質問したものに即して言ってみよう。たとえば、父につかえる場合、まさか父の身辺に孝行の理を探すわけでもなかろう。君主につかえる場合、まさか君主の身辺に忠の理を探すわけでもなかろう。友人と交際する場合、民を治める場合、友人・民の身辺に信・仁の理を探すわけでもなかろう。すべては、ただこの心にあるのだ。心は、理そのものだ。この心に私欲の覆いがなければ、天理そのものだ。外部から少しも加える必要もないのだ。この天理に満ちた心で父につかえれば、孝になり、君主につかえれば、忠になり、友に交わり民を治めれば、信と仁になる。ただ、この心の上で人欲を取り去り天理を存養するように努力すればいいのだ。」

陽明学 - Wikipedia

形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた。心即理知行合一致良知の説を主要な思想とする。

心即理 - Wikipedia

朱子学では聖人は学問の研鑽と静坐により達成した人であったが、陽明学では「満街の人みな是れ聖人」(街中の人すべてが聖人)というように、すべての人が本来的に聖人であるとし、その心の良知を静坐により発揮しさえすれば(致良知)、それが聖人の証であるとした。

知行合一 - Wikipedia

王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、実践重視の教えを主張した。朱熹の学(朱子学)が万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」であることを批判して主張した。

致良知 - Wikipedia

『大学』にある「格物致知」という言葉に対する解釈より生じたものであり、朱熹が「知を致すは物に格(いた)るに在り」とし、万物の理を一つ一つ極めて行くことで得られる知識を発揮して物事の是非を判断するとするのに対し、王守仁は「知を致すは物を格(ただ)すに在り」として物を心の理としてそれを正すことによって知を致す、すなわち「良知を致す」ことであると解釈した。

人は必ず事上にあって磨錬すべし - 山田方谷マニアックス
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150619#1434710427
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150615#1434364591祇園祭り)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150526#1432637451(切問近思)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150119#1421663680(三心平等なり)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20120502#1335968776ファウスト