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GMOの社会的費用: マスコミに載らない海外記事

ハーマン・デリー等の生態経済学者は、世界が満ちれば満ちるほど、生産の為の社会的費用外部費用は高くなると主張している。


社会的費用、あるいは外部費用は、製品価格に含まれない製造コストのことだ。例えば、農業で使用された化学薬品のおかげで、メキシコ湾の魚が消滅した区域は、農業生産のコストに含まれていない。食品価格は、メキシコ湾の損害を含んではいないのだ。

科学技術の進歩は、神ならぬ身の人間が、不十分な情報で、わがもの顔で振る舞うことを可能にしてしまう。遺伝子組み換えの否定的側面は未知で、本当にかかるコストは恩恵を越える可能性がある。経済学者が“低コスト生産”と呼ぶものは、実際は非常に高いコストになりかねない。


常に解決策があると思っているせいで、新古典派経済学者は、外部費用のことを眠れないほど心配することもない。彼等は、汚染に対処する方法は、汚染に価格をつけ、最も汚染を必要とする企業が、その権利を購入することだと考えている。これが、どうにかして、汚染問題を解決するものだと考えられているのだ。人間が作る資本が、自然資本を置き換えられると信じ込んで、新古典派経済学者は、資源が枯渇することなどありえないと考えている。しかし、これは我々は益々生産的になり、一層暮らし向きが良くなり、何も涸渇するものなどないという空想世界だ。

生態経済学者による世界の見方は異なっている。鉱物資源や漁業資源の様な自然資本は枯渇しつつあり、廃棄物捨て場は満杯になりつつあり、大地、空気や水は汚染されつつある。あらゆる生産活動は有用な製品と廃物を生み出す。外部費用と自然資本の枯渇が測定されていない以上、我々には、生産高の増加が本当に経済的なのか、それとも経済的ではないのかを知る方法がない。我々にわかるのは、実際のコストが製品価格で賄われているかどうかだけだ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140523#1400842045
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140522#1400755517
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131211#1386758725