彩佳・富川1
彩佳・富川2
小川彩佳1
小川彩佳2
林美沙希1
林美沙希2
青山愛1
青山愛2
鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)、第七高等学校造士館(現鹿児島大学)を経て、1928年4月に東京帝国大学法科(現、東京大学法学部)入学。在学中に上杉慎吉主宰の帝大七生社の同人となる。大学中退後、安岡正篤の金鶏学院に入ったがロンドン海軍軍縮条約の反対運動の時に安岡に四元は不満を抱いた。その頃に井上日召と知り合い、血盟団の同志となる。血盟団事件に連座して逮捕される。1934年11月22日に殺人罪で懲役15年の実刑判決。1940年に他の団員と共に恩赦で出所する。近衞文麿や緒方竹虎のブレーンとして活躍した。
農場経営を経て、1955年から田中清玄の経営していた三幸建設工業の社長となる。2000年、同社会長。 2003年に会長を退任した。
1941年4月29日、10年1ヶ月の刑期を終え出所。身元引受け人は内務省警保局長富田健治。田中は明治神宮と皇居を拝したのち、5月1日に三島の龍沢寺の山本玄峰を訪ね、「自分の本当のルーツを発見して、マルクス主義や惟神(かんながら)の道などという狭隘で一神教的な道ではない、自分の本当に進むべき道を発見したい」と頼んだ。五・一五事件の法廷で井上日召の特別弁護人を引き受けたこともある山本玄峰は、刑務所で田中に法話をしていた。田中に山本を紹介したのは血盟団事件に連座した四元義隆だった。ほか、龍沢寺には、鈴木貫太郎、米内光政、吉田茂、安倍能成、伊沢多喜男、岡田啓介、迫水久常、岩波茂雄ら多くの人士が出入りし、多くが軍部を批判していたという。また玄峰は谷中の全生庵でも法話を行い、三井の池田成彬や侍従の入江相政らも訪れた。迫水久常は東条英機が老師に会いたがっていると言ってきたが、老師はその必要はないと断ったという。田中は玄峰の秘書・用心棒を勤めた。
1945年1月、玄峰は公案に「日本をどうするか」を出した。清玄が「戦争をとめるしかありません」と言うと、「だめだ、練り直してこい」と却下。三日たっても答えられないでいると、「無条件で戦争に負けることじゃ」と怒鳴られた。本土決戦や聖戦完遂は、我執にとらわれているという。これで清玄は国を救う決意がかたまり、神中組という結社をつくる。また終戦工作に加担する。田中清玄は枢密顧問官の伊沢多喜男に相談。3月25日、赤阪で山本玄峰は鈴木貫太郎と会談、「事態を収拾できるのはあなただ」と言った。やがて鈴木に終戦内閣の大命が下り、日本はポツダム宣言を受諾した。
田中は池田成彬の紹介で、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと鹿島守之助と親交をむすび、ハプスブルク=ロートリンゲン家家長のオットー大公を紹介された。オットー大公は戦前にオーストリア皇位継承権を放棄して、反ファシズムを表明、戦後は欧州統合運動の推進役となった。経済学者フリードリヒ・ハイエクにはオットー大公から紹介された。田中はオットーに勧められ、1961年自由主義運動を推進するためにハイエクが組織したモンペルラン・ソサイエティーに入会した。ハイエクは社会主義とケインズ経済学の両方を批判していて、田中は、とくに人為的な信用によって一時的に景気を上昇させても、それによっておこる相対的な価格体系の混乱はやがて景気を反転させるという思想に共感していた。1974年2月10日、ハイエクのノーベル賞授賞式ではパートナー役をつとめる。メインテーブルに招かれた日本人は田中清玄だけだった。
右翼で最も近しかったのは四元義隆で、のちに松永安左エ門の助言で、三幸建設を譲っている。
「あんた、なんだと聞かれたら、本物の右翼だとはっきり言いますよ。右翼の元祖のようにいわれる頭山満と、左翼の家元のようにいわれる中江兆民が、個人的には実に深い親交を結んだことをご存じですか。一つの思想、根源を極めると、立場を越えて響き合うものが生まれるんです。中途半端で、ああだ、こうだと言っている人間に限って、人を排除したり、自分たちだけでちんまりと固まったりする」
「政治家なら国になりきる、油屋なら油田になりきる、医者ならバクテリアになりきる。それが神の境地であり、仏の境地だ」
1945年、終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言したり、天皇を国家の「象徴」と定義する(象徴天皇制)よう発案するなど、鈴木貫太郎首相などの相談役なども努めた。
その姿を見た剣の達人は「あの人は斬れない。衣と体がひとつになっている。ああいう人は斬れない」と周囲に洩らしたという話がある。
(第214号) 山本玄峰老師(1) 〜白隠禅師と玄峰老師〜 (平成18年3月1日号)|三島市
山本玄峰の履歴(プロフィール)
史上、血盟団事件の黒幕であった井上日召、戦前武装共産党のリーダー田中清玄の二人を帰依させ、二人は終生師と慕い、薫陶を受けることになった。
老師の名声は全国に広まり、老師の導きを受けに政財界の大物たちが馳せ参じることになった。
玄峰老師の愛用句は、「性根玉(しょうねったま)を磨け、陰徳を積め」であった。北条時頼の和歌「心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな」を引用した。
「金や物はいくらあっても結構だから、無駄使いをせぬように大切にせねばならぬ。『君子財を愛す、是を使う道あり』と云って、その使い方が悪いと金や物を殺し、自分をも殺すことになる。大東亜戦争でもそうであり、十分な兵力や物資を持っておって、もし先方から攻めてくれば、いつでも受けて立つぞという心構えと準備をしておって、それを使わないように上手に外交をして行かねばならぬ。それをかぐ兵力や物資を使いたがるから、間違いが起こり、自分を殺すことになるのである。人生は全てこの通りである」。
「わしは、天皇が下手に政治や政権に興味を持ったら、内部の抗争が絶えないと思う。何故かというと、天皇の詔勅を受けているんだからというて、天皇の権力を担ぎ廻って、派閥の抗争を始めるだろう。だから、天皇が一切の政治から超然として、空に輝く太陽の如くしておられ、今度は、その天皇の大御心を受けて、身を慎み、真善美の政治を実現するということになれば、天皇が居られても、もっと立派な民主主義国が出現するのではないか。天皇は空に輝く象徴みたいなものだ」。
「一番業の深い、最悪の生物は人間じゃ」。
「僧堂にはいろいろな人がくるが、まともな人間は余人に任せる。わしは世間から、あばれもの、やくざもののように見られている連中を世話する」。
「隠徳を積め」。「人間は若いときに陰徳を積んでおかないと、歳を取ってから苦労するから、常に陰徳を積むことを考えよ」。
「お前は、まだ解らぬのか!わしは、世のため、人のためにと念じて修行したことは一度も無い。みんな自分のためにやっているのや」(田中清玄に放った言葉)。
「性根玉が磨かれると、どうなるかといえば、自然に物事の道理が解ってくる。『天下の理に従う者は天下を保ち、天下の理を恣(ほしいまま)にする者は天下を失う』ということがあるが、物事の道理が解ってくるとろ、一切の物が語法神となって自分を守ってくれる。又何を行っても自然に成功し、成就するようになる。人生において一番大切なことは、この、なにゆえかは知らぬが、何事も自然に成就することである。そうなるには、性根玉を磨かねばならぬのじゃ」。
「お坊さんは障子の糊のようなものだ」。「どんな立派な障子でも、糊が無かったならば、障子の桟(さん)と紙が離れて障子の役目をしない。しかし外から見ると、糊は有るか無いか分からない。お坊さんは、この糊のように、人の知らないところで人と人とが仲良くし、一切の物事が円満に成り立って行く様に働いてゆかねばならないのだ」。
「時世には流れと勢いというものがある。これに逆らってみたところでどうにもならん。人が東に走る時には、共に東に走り、西に向かう時には、共に西に向かわねばならんが、泥棒と巡査のようなもので、同じ方向に走っていても、心掛けはそれぞれ違っていなければならん。それと同様に、同じことをしていても、心の置き場所が違わねばならぬ」。
「人間は早く出世することを考えてはならん。若いときにはなるべく人の下で働き、人を助け、人の為に働かなければならん。40歳以前に人の長上に立ってはいけない。40歳以前に出世すると、60、70になって凋落してしまう。『年年に咲くや吉野の山桜 木を割りて見よ花のありかを』という歌があるが、これは人生には根肥(ねごえ、寒中の葉も草も無い時に木の根にやっておく肥料)が大切ということだ。花も葉も無い寒中に、木の根に肥料をやっておくように、人生には何よりも根肥えが大切なのじゃ。人間は40よりも50、50よりも60と、歳を取るに従って人に慕われ、人の役に立つ人間になり、むしろ喜んで人に惜しまれ、人を教えてゆくような人間にならなければならん。それが為には出世を急がず、徳と知恵と力を養っておくことじゃ」。
1998年から早稲田大学政治経済学部教授。学部講義の他、早稲田大学独自のオムニバス授業である「大隈塾」のコーディネーターも担当している。国家公務員I種試験(行政職)などの試験委員も務める。日本ニュース時事能力検定協会理事(2006年度まで)。早稲田大学理事(教務部門総括)。2010年から政治経済学会理事。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140706#1404643292
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140526#1401101487
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140301#1393670921
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130227#1361976014
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20090515#1242382228
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20090127#1233016280
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20080813#1218614988
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20080508#1210202194
機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで (ちくま学芸文庫)
- 作者: 迫水久常
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/02/08
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 2回
- この商品を含むブログ (7件) を見る
大野 聡美 熱い夏|アナアナ 〜ABC朝日放送アナウンサーページ〜
今年も、熱い甲子園の季節がやってきました。二年目になった私も、新人アナウンサーと一緒に「燃えろ!ねったまアルプスリポート」に参戦します。