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「昭和天皇実録」を両陛下に奉呈 NHKニュース

天皇実録は、歴代の天皇の活動を後世に伝えるため、天皇の日々の動静などを客観的な資料を基に日誌のような形で年代順に記した記録集で、宮内庁は、平成2年から24年5か月かけて「昭和天皇実録」を完成させました。
21日は、午後2時に両陛下のお住まいの御所で、宮内庁の風岡長官から合わせて61巻、1万2000ページ余りからなる正本が、両陛下に奉呈されました。
昭和天皇実録」は、宮内庁の公文書や側近の日誌など、およそ3000件に上る資料を基に編さんされ、天皇の在位期間の長さや激動の昭和の時代を反映して、歴代の天皇実録の中で最も長編になりました。
当初、平成17年度に終わる予定だった編さん作業は、新たな資料の発見などで2度にわたって延長され、人件費を除いても2億3000万円余りの費用がかかったということです。
また、すべての内容の公開や書籍としての出版を前提に作られた初めての天皇実録で、一部を除いて口語体で記述されました。
昭和天皇実録」は、来月中頃、内容が公開され、今年度末から5年をかけて順次出版される予定です。
昭和天皇の初めての公式記録集で、昭和史研究の基礎資料としての価値も高く、戦前から戦後の占領期を中心に、新たな事実や資料が示されるかどうかが注目されます。

天皇実録」は、歴代の天皇の活動を後世に伝えるため、天皇の日々の動静や、関わりのある政治や社会情勢について、客観的な資料を基に日誌のような形で年代順に記した記録集です。
天皇紀」と呼ばれることもあり、これまでに初代の神武天皇から大正天皇までのすべての天皇の実録が作られていました。
宮内庁の公文書をはじめ、側近が記した日誌や、皇族や歴代の総理大臣などの日記、それに外交や防衛関連の文書など膨大な資料を集めたうえで、関係者からも可能な限り聞き取りを行って編さんされます。
はじまりは、古代の朝廷が中国の例にならって編さんした歴史書で、奈良時代に成立した「日本書紀」から平安時代前期の「日本三代実録」まで6つが作られました。
その後、長く途絶えましたが、明治維新を経て、天皇の生涯の記録を残すため再び編さんされるようになり、明治時代に「孝明天皇紀」が、大正から昭和にかけて「明治天皇紀」が、昭和の初期に「大正天皇実録」が作られ、「孝明天皇紀」と「明治天皇紀」は、後に書籍として出版されました。
また、大正から昭和初期にかけて、江戸時代に至るまでのすべての天皇をまとめた実録も作られました。

昭和天皇実録」は、すべての内容の公開や書籍としての出版を前提に編さんされた初めての天皇実録です。
孝明天皇紀」と「明治天皇紀」は、いずれも完成後に公開されず、戦後になって書籍として出版されました。
大正天皇実録」も長らく公開されず、平成13年の情報公開法の施行を受けて段階的に公開されましたが、宮内庁が個人情報の保護などを理由に、一部を黒く塗りつぶす措置を取ったことから、研究者などから「歴史資料としての価値が損なわれた」などと批判の声が上がりました。
宮内庁は、この時の公開の在り方の反省を踏まえ、「昭和天皇実録」については、すべての内容の公開を前提に、学業成績や病気の詳細など実録にふさわしくないと判断した部分を除いたうえで編さんを進め、両陛下への奉呈に続き、書籍として出版する方針を明らかにしていました。

87歳で生涯を終えた昭和天皇
長寿で、在位期間も62年余りと長かったことに加え、戦前から戦後という激動の時代背景もあって、「昭和天皇実録」は歴代の実録の中で最も長編になりました。
本文は1万2000ページ余りに及び、これまでで最も長かった「明治天皇紀」のおよそ1.5倍の分量です。
これに目次などを加えて、合わせて61巻にまとめられていて、本を立てて並べても1.8メートルの幅を取ります。
昭和天皇実録」の編さんに当たって、宮内庁は、公文書や側近の日誌などに加え、全国47の都道府県や海外にも職員を派遣して、およそ3000件に上る資料を集めるとともに当時の幹部や側近など50人近くから聞き取りを行いました。
当初は、平成17年度に終わる予定だった編さん作業は、新たな資料の発見や、事実確認に時間がかかったこともあり、2度にわたって延長され、編さんに要した期間も24年5か月と明治以降に作られた天皇実録では最も長くなりました。

近現代史が専門の日本大学古川隆久教授は、昭和天皇実録の意義について、「昭和天皇の生涯が初めて日にちごとに詳細に分かる資料で、昭和天皇の全体像や歴史的な位置づけを考えるうえでの基本的な資料の1つになると期待される」と話しました。
そして、終戦を決めた御前会議やGHQ=連合国軍総司令部マッカーサー最高司令官との会見など、昭和天皇の具体的な発言内容を巡って、専門家の間で意見が異なったり確実な資料が見つかっていなかったりする事柄が、新たな資料などによってどの程度解明されるかが注目されるとしています。
そのうえで古川教授は、「昭和天皇は、旧憲法下と新憲法下の両方の時代にまたがって在位し、さまざまな評価を受けてきた人で、実像が今まで以上に分かるということは、私たちの歴史を振り返るうえで、いろんな手がかりを与えてくれるのではないか」と述べました。

昭和天皇は、確かな記録の残る歴代の天皇では最も長寿で、在位期間も62年余りに及び、戦前から戦後にかけての激動の時代を生きました。
昭和天皇は、明治34年4月29日、大正天皇の長男として誕生し、裕仁と命名されました。
天皇家の慣習に従って生後2か月余りで親元を離れ、厳しく育てられました。
明治天皇が亡くなると11歳で皇太子となり、学習院初等科を卒業後は新しく設けられた教育機関で、皇位継承者としての教育を受けました。
その仕上げとして、19歳の春から半年かけてイギリスやフランスなどヨーロッパ諸国を歴訪しました。
そこで、第一次世界大戦の爪痕を目にする一方で、ゴルフやお忍びのパリ見物なども楽しんだ昭和天皇
後に、生涯で最も印象深かったことに挙げ、「あの旅行で本当の自由と楽しさを味わった」と語りました。
帰国後、病気の父・大正天皇を支える摂政に就任し、大正天皇が亡くなると25歳で第124代の天皇に即位しました。
日本は、昭和6年に起きた満州事変をきっかけに国際的に孤立する道をたどり、軍国主義の色合いも強まっていきます。
日中戦争に続いて、昭和16年には太平洋戦争が始まり、昭和天皇大元帥として陸海軍を統帥しました。
戦局が悪化するなか、軍部の責任者などからもたらされる情報は、日本の不利な戦況を十分に伝えるものではなく、昭和天皇は長引く戦争に苦悩を深めたと言います。
アメリカ軍の本土爆撃が激しさを増すなか、沖縄での地上戦や、広島、長崎への原爆投下などを経て、昭和天皇も出席した御前会議で日本の降伏が決まりました。
昭和天皇は、終戦詔書をみずから音読して録音し、8月15日に、ラジオを通じた「玉音放送」で国民に伝えました。
連合国の間から天皇の戦争責任を追及する声も挙がるなか、昭和天皇はGHQ=連合国軍総司令部マッカーサー最高司令官との会見に臨みました。
そして、翌年の元日には、みずから神話と伝説に基づく神であることを否定する、いわゆる「人間宣言」を行いました。
この翌月、復興に向かう人々を励ますため、全国を回る旅を始めます。
戦後の民主化が進められるなか、新しい憲法で、絶対的な君主から、国の象徴へと転じた昭和天皇
憲法に定められた国事行為を内閣の助言と承認に基づいて行い、東京オリンピックや国体の開会式などにも臨みました。
ヨーロッパ諸国やアメリカも親善訪問し、アメリカからの帰国後、テレビカメラを前にした初めての記者会見に臨みました。
この中で、在位中の最もつらく悲しかった思い出を尋ねられ、「言うまでもなく第二次大戦であると思います。こういう悲しむべきことが今後も起こらないことを祈っています」と話しました。
昭和62年に腸の手術を受け、一時は公務に復帰しましたが、再び体調を崩し、昭和64年1月7日、波乱に満ちた87年の生涯を終えました。

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