日本時間の27日朝早くアメリカのボストンに到着した安倍総理大臣は、市内にあるケネディ元大統領ゆかりの図書館を訪れ、元大統領の長女のキャロライン・ケネディ駐日大使の案内で、館内を視察しました。
このあと安倍総理大臣は記者団に対し、「彼の輝くようなリーダーシップによって、いかに多くのことを成し遂げることができたか、改めて感銘を受けた。また、日本との戦いで負傷されたケネディ大統領は、アメリカの大統領として初めて日本を訪問しようとしておられた。日本への深い思いに非常に感銘を受けた」と述べました。
このあと、安倍総理大臣は岸田外務大臣や昭恵夫人らと共に、ボストン市内にあるケリー国務長官の私邸に招かれ、夕食会を行っています。
政府関係者によりますと、ケリー国務長官が外国からの賓客を私邸に招くのは異例だということです。
アメリカ大統領が尊敬する理由:上杉鷹山の生涯 〜不安定な現代に役立つ格言〜
アメリカのケネディ元大統領が「最も尊敬した日本人」は上杉鷹山と語ったことは非常に有名ですね。〈ケネディ大統領が日本人記者団の質問に答えたもの。質問した記者たちのほうが鷹山を知らず、閉口したというエピソードがあります)
内村鑑三(近代日本の思想家)は『代表的日本人』という著作の中で五人の人物を紹介しているのですが、その一人が上杉鷹山なんです。
日向 ・ 高鍋藩の秋月家の次男坊として生まれた鷹山は、9歳の時、名門・上杉家の養子となります。
そしてついに鷹山が17歳で家督を継いだ時、上杉家の借財は20万両に達していたと言いますから、藩財政は破たん寸前でした。
この奇跡のドラマは、鷹山14歳の時、生涯の師となる細井平洲 (へいしゅう)との運命的な出逢いから始まったのです。
平洲が最後に米沢を訪れたのは、彼が69歳の時。
2度目の訪問から13年、鷹山と平洲が師弟の契りを結んでから、30余年が経っていました。
鷹山にとっては、夢にまでみた恩師との再会です。
その再会に際して、なんと、鷹山自らが、お城から10キロほどもある
普門院というお寺までわざわざ出かけていって、平洲を出迎えたのです。
驚き、感激したのは、師の平洲です。
「本来なら、平伏すべきところですが、もし、私が平伏すれば、鷹山公もそれに応え、地に手を当てて答拝なさるでしょう。ですから、失礼なのは承知の上で、こうして、最敬礼させていただきます。」
この時、鷹山は、平洲の手を取らんばかりに肩を並べて歩き、寺の中へ案内しました。
師弟の目には涙、そしてこの様子を見ていた近隣の村民たちも、みな深く感動し、声を忍んですすり泣いたということです。
上杉鷹山の優しさの秘密 ♪|博多の歴女 白駒妃登美 公式ブログ
米沢藩主 ・ 上杉重定の正室に男子がいなかったので、鷹山は、重定の正室が生んだ幸姫 (ゆきひめ) と将来結婚することを前提に、この養子縁組が決まったのです。
幸姫には、脳障害と発育障害があったと言われていて、彼女の心と体は、10歳にも満たない幼女のようでした。
彼女は1769 (明和6) 年に鷹山と婚礼を上げ、1782 (天明2) 年に30歳で死去するという短い生涯を送りましたが、鷹山は、側室も置かずに、この幸姫をその短い晩年まで慈しみ続けました。
一説によると、父親の重定は、鷹山に家督を譲ってからは米沢に隠居し、江戸藩邸の娘とは幼少時から顔を会わせていなかったために、娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘に対する鷹山の心遣いに、涙したと言われています。
後継者が絶えることを恐れた重役たちの勧めで、10歳年上で上杉家分家の姫であるお豊の方を側室に迎えたのは、幸姫が亡くなってからのことでした。
その後、鷹山は、35歳の若さで隠居し、実子がいたにもかかわらず前藩主 ・重定の実子 ・ 治広に家督を譲ります。
その優しいまなざしは、死者にも向けられました。
上杉家を窮地に陥れた…というのはあくまで結果論。
運が味方しなかっただけで、兼継の上杉家への忠誠心は絶大であり、上杉のために生涯を捧げたと言っても過言ではありません。
さらに、上杉家が会津120万石から米沢30万石に減封されると、家臣とその家族3万人を養うために、誰よりも心を砕いたのが、兼続でした。
その兼続に、天下の名君 ・ 鷹山が尊崇の念を抱いていることがわかると、兼続の汚名は晴れ、正当に評価されることになったんですね。
安永6年12月6日(1778年1月4日)、米沢西郊の遠山村(米沢市遠山町)のヒデヨという老婆が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が残っている。
尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市)の農家に生まれた。幼くして学問に励み、16歳のときに京都に遊学するが、当時有為な学者はほとんど江戸幕府や諸藩に引き抜かれていたので失望し帰郷。そのとき尾張藩家老竹腰氏家臣の子で折衷学派の中西淡淵が名古屋にも家塾の叢桂社を開くことを知り、そのまま師事する。
平洲が遺した言葉として、米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。
細井平洲のことば/東海市
安岡正篤を学ぶ - 細井平洲/安岡正篤教学一日一言...
中西淡淵が藩命により江戸へ出て叢桂社(塾)を開くことになり、その後を慕って江戸に出た。
時に二十四歳、老父正長と新婚早々の妻を伴って、芝神明町の小さな家で貧乏生活を始めた。
そこへ、長崎遊学以来の親友・小河仲栗が妻と二人の子供、さらに同じく親友の飛鳥子静とその子供一人が転がりこんできたのである。狭い小さな家に三世帯九名が住んだのであるから、一般ならばいろいろ問題も起こり、周囲から陰口も出るのであるが、近所の人は別世帯三家の共同生活とは思わず、平洲の父正長に向かって「三人の賢い学者のお子さん、よく尽くされているこ人のお嫁さん、それによくできている三人のお孫さんと睦まじいご家庭を持たれて、貴方ほどお仕合せな方はありません」と羨んだというのである。
渡邊五郎三郎先生、細井平洲「将の人間学」より
上杉鷹山の師細井平州の私塾「嚶鳴(おうめい)館」と「父母の心」 野口修一の公式ブログ
「細井先生の講釈は、難しいことをわれわれの頭に合わせて易しく教えてくださる」
「世の学者には、易しいことをわざわざ難しくいって自分の利口ぶりを語る人が多いが、細井先生は違う。細井先生こそ、本当に頭がいいのだ。易しいことをわざわざ難しく語る学者は、本当は馬鹿なのだ」
細井平州は、江戸の街頭に立って辻講釈を始めた。場所は人が沢山通る両国橋を選んだ。
(以上、童門冬二著「上杉鷹山と細井平州」)
細井平州の師 中西淡淵(たんえん)|ブログ|リアンブルーコーチング舎 山梨県甲府市
「学問とは・・」 中西淡淵−細井平州の師の言葉
(小説 細井平州 二宮隆雄著 PHP研究所より)
「学問は知識の量ではありません。
また細かい字句の研究でもありません。」
「学問は書物から学んだことを、日々の暮らしにどう生かすかが大切です。
日々の暮らしに生かせなければ学問ではないし、いまの学者はそれをしていませ
ん。」
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