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【関西の議論】次期門首はサンバの国から来た物理学者 「お東紛争」は知らず…「妻とはアツアツ」で会見は笑いの渦 - 産経WEST

真宗大谷派の次期門首、大谷暢裕(ちょうゆう)師(63)が4月22日、京都市下京区の本山・東本願寺で初めての記者会見に臨み、自らと教団について語った。ブラジル国籍の物理学者という異色の経歴とあって報道陣の関心は高く、時間は予定を約30分オーバー。

 「私はれっきとしたブラジリアン。どこまで日本語でお答えできるか分からないが、ベストを尽くしたい」。暢裕師は集まった報道陣約40人を前に、こう切り出した。


 暢裕師は京都生まれ。1歳だった1952(昭和27)年、南米開教区の開教使となった父、暢慶(ちょうきょう)師の赴任に伴ってブラジルへ渡り、今年3月まで60年余りにわたって現地で暮らしてきた。ブラジル国籍で日本国籍はなく、日本語と英語も話せるが、日常会話や読み書きは母国語のポルトガル語を使う。

 好きなブラジル料理シュラスコ(肉の串刺し)、日本料理はカレーライス。趣味は仕事だった研究で、愛読書は「論文」というほど筋金入りの研究者だ。


 専攻は物理学。サンパウロ大で博士号を取得し、1979(昭和54年)年から勤務した航空技術大では、基礎科学部の学部長を最後に2012(平成24)年、定年退職した。ロケットのノズルに使われる炭素素材や、プラズマを用いたごみ処理技術の開発に当たったという。


 宗教者としての歩みは、父の影響があったようだ。幼い頃から父に連れられて門徒の法要に参列し、親鸞が記した「正信偈(しょうしんげ)」や念仏に親しんだ。


 仏教を学べといわれたことはなかったが、1992(平成4)年に本山で営まれた祖父の法要のため来日した際、父から得度するよう求められ、僧侶になった。40歳のときだった。


 科学と宗教の関係について、物理学者で宗教者という立場から、このように語った。「人間の中には科学と宗教が共存している。科学は人間が生きるために絶対必要だが、宗教を包み込むことはできない。科学を追究すれば、宗教が大事だと必ず分かってくる」


 さらに、ブラジル人として「東本願寺が誰もが集える場所であってほしいし、そのためには国際化が絶対に大事だ」と指摘。「門徒のみなさんと私が、一緒に手を取り合って念仏申し上げる。そのために、世界の反対側から日本にやってきた」と述べた。

 そもそも暢裕師はなぜ門首後継者に選ばれたのか。


 真宗大谷派門首は代々、宗祖親鸞の血筋を引いており、世襲によって嫡出の男系男子が継承するのが原則だ。現在の門首は第25代の大谷暢顕(ちょうけん)師(85)だが、平成8年に就任して以来、後継者は決まらず、実に18年間も不在のままだった。暢顕師に子供がいなかったからだ。


 後継者候補に挙がったのは近親者5人。その中でも暢裕師は暢顕師のいとこで、最近親の血統の男子に当たるため最有力とされたが、正式に門首後継者に決まったのは昨年4月のことだった。


 生まれて間もなく本山を離れており、大谷派としても人物像を把握しきれなかったことが、選定が遅れた原因とみられている。


 そんな懸念をよそに、暢裕師は門首後継者を受諾した理由について「親鸞聖人の教えは日本国にリミットされず、世界に通用する。その確認のためにお手伝いさせていただけるなら、すばらしいと思った」と語った。

 記者会見は門首後継者として上々のお披露目となったはずだが、ある宗派関係者は浮かない表情を見せる。その理由は、暢裕師があくまで後継者であり、現状では儀式で門首を補佐する「鍵役」の一人にすぎない、ということだ。


 関係者によると、大谷派は第25代門首、暢顕師にできるだけ長く門首を務めてもらう方針を固めている。健康上の理由などで暢顕師が辞意を表明しないかぎり、暢裕師は門首に就任しない。この点、暢裕師は「継承の時期は私が決めるものではない。本山の晨朝(じんじょう、朝の勤行)に毎朝出仕し、鍵役としてのお務めを果たすことが大切です」と語っている。


 不安材料はもう一つある。将来、暢裕師が門首になると、今度は自由な言動ができなくなることだ。


 大谷派は、宗派の最高規範とされる「宗憲」で、門首の行為を厳しく制限している。それによると、門首は僧侶と門徒の代表という象徴的存在。門首の宗務に関する行為は、すべて「内局」の進達によって行い、内局が責任を負うと決められている。


 内局は、宗派の最高議決機関である「宗会」が指名する宗務総長と、5人の参務で構成される。宗会を国会、宗務総長を首相、内局を内閣になぞらえれば分かりやすい。


 つまり門首は、宗祖親鸞の血筋を引き、僧侶と門徒の先頭に立つ立場にありながら、いわば議院内閣制によって実権を持たないことになっているのだ。

 なぜ門首の権限に制約をかける必要があるのか。


 背景にあるのが「お東紛争」と呼ばれる過去の内紛だ。ことの発端は昭和44年にさかのぼる。


 当時の教団トップ、光暢師(暢顕師の父)は門首ではなく「法主」と呼ばれており、親鸞を祖先にもつ大谷家の当主として、宗門の最高権威と位置づけられていた。その光暢師が、内局に無断で突然、記者会見を開き、大谷派の管長職だけを長男の光紹師に譲る−と発表した。


 内局は「利権を狙う第三者が介入した」と反発し、大谷家と内局の対立が深まった。実際、光暢師は独断で大型事業を計画し、約束手形の乱発や財産の売却を進めていた。ついには内局が背任罪で光暢師を告訴し、京都地検が関係先を家宅捜索する事態にまで発展したのだ。


 結局、双方は和解して告訴は取り下げられたが、この苦い歴史を教訓に昭和56年、宗憲が改正され、現在の門首制度ができた。


 お東紛争はその後も後継者争いなどを背景に続いた。光暢師の次男、暢順師が理事長を務める財団と大谷派の対立に至っては、現在も法廷で係争中だ。光暢師には4人の男子がいたが、暢順師を含む3人は相次いで宗派を離脱し、三男の暢顕師だけが残って門首を継承したという経緯もある。


 暢裕師はその「次」を担うわけで、今回の記者会見では当然、お東紛争にまつわる質問も相次いだ。だが、暢裕師はこう述べるにとどめた。


 「概略は(門首後継者に)就任する時期に聞かせてもらったが、細かい情報はブラジルまで来ないので、全然知らなかった」


 「とても難しい問題で、すぐにはお答えできない。教団の歴史をしっかり勉強し、今ある教団と一緒に考えねばならない」