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信長はなぜ根拠地を何度も変えたのか組織が成長するために今も昔も必要なこと|戦略は歴史から学べ|ダイヤモンド・オンライン

 当時の武将は、不変の根拠地を持っており、戦闘が終わると必ずその地に戻りました。そのため京都から遠い武田氏、上杉氏などは勢力があっても上洛が難しかったのです。信長は領地拡大に合わせて根拠地を西に移動させ続けて、家臣団も城下町に住んだので、自身の根拠地がそのまま西へ移動するような形となりました。


「方面軍」は、北陸・関東・大坂・畿北・四国・中国・東海道などに分かれ、中国方面は羽柴秀吉が、東海道は同盟していた徳川家康が担当していました。これはビジネスで多角化を成功させる事業部制に大変よく似ています。当時はいくさのない時期、武士も農業に関わりましたが、信長は直臣の兵農分離を進め、根拠地を移動させたことで家臣団は領地にこだわらず戦闘に集中できました。

織田信長が根拠地を四回も変えたことは、どのような効果があったのでしょうか。一つには天下統一への重要エリアへのアクセスや支配力の強化が可能になったこと、二つ目は部下が物事を考える視点を転換できたことがあげられます。


那古野城にもし信長の根拠地があり続ければ、京都や関西、四国中国地方の騒乱に対して即時介入はできず、家臣も天下を狙う集団だと自己認識しなかったかもしれません。

 根拠地の移動は、本社所在地だけでなく、事業領域の軸足の変化にも例えられます。ビジネスでは「事業ドメイン」(=事業の展開領域)という言葉がよく使われますが、ビジネスを行う領域を計画的に変化させて、新たな成長市場へアクセスするためドメイン移行が行われます。

 さらに信長は、豊臣秀吉など百姓出身でも功績で抜擢し、代々の織田家臣団に比肩する地位を与えました。肩書ではなく実力と戦果で人事が決まることを集団に徹底させて、ベテランの家臣も健全な競争意識の中に巻き込む効果を狙ったのです。信長は、天下を獲るため過去と離れ続け、時代の中心地に拠点を移動し、競争意識の高い優れた戦闘集団をつくり上げたのです。

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