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加藤剛 - Wikipedia

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徳川宗春 - Wikipedia

当時の幕府は享保の改革を推進する将軍徳川吉宗のもと、老中松平乗邑の主導で質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていく。緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和(消費奨励ではない)の尾張藩となっていった。ただし規制緩和のみではなく、神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っている。一方、巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていった。


享保17年(1732年)正月、自身の著書『温知政要』(21箇条)を藩士に配布した。3月には『條々二十一箇條』を発布した。その中で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げた。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の享保の改革による緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発があると言われている。なお、幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである。


この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。また宗春の治世の間、尾張藩では一人の死刑も行われなかった。宗春は、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による表立った巡回をさせている(密偵は使わなかった)。また犯罪者が増えると、死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた。さらに、心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的には夫婦として普通に生活することを許可した(闇森心中事件:当時の幕府の令では「心中未遂の場合は非人あるいは死罪」)。岐阜への巡視では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩で移動するなど、当時としては斬新な行動をいくつも行なっている。こうしたことで、当時としては珍しく、生存中の大名が浄瑠璃や歌舞伎の題材となった。


享保17年(1732年)には参勤交代で江戸へ下る。先代継友時代、享保10年(1725年)に火事で焼失した江戸上屋敷市谷邸が新築再建され、嫡子の萬五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。5月5日、東照権現徳川家康から藩祖徳川義直が拝領した幟旗並びに嫡男萬五郎の武者飾りを見てもらうために、市谷邸を江戸町民に開放した。これは新築された市谷邸の披露も含まれている。通説ではその後、5月または9月に将軍吉宗から使者を介して詰問されたといわれる。その内容は、


国元ならともかく江戸においても遊興にふけっている
嫡子の初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ、尾張家が家康から拝領した幟まで飾った
倹約令を守っていない


というものだった。これに対し宗春も、一応上意として受けるも、


他の大名のように国元で遊興にふけり、江戸では倹約するという表裏ある行動は取れない。第一、領民に迷惑をかけていない
節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ、家康から拝領した幟まで飾ったのがけしからぬと言うが、そのような禁令はいつ出たのか
お上は倹約令を守っていないと言うが、私なりに倹約に努めているつもりだ。ただお上は倹約の根本をご存じないので、おわかりにならないのだろう


一歩も引かず反論した、と通説では言われる。


宗春は、規制緩和による経済の活性化を図るものの、尾張藩の財政は赤字に転じたと通説では言われる

形式よりも中身を大切にした(例:仁・「まこと」を重視する 温知政要・條々二十一箇条 等)
意味のある祭りを盛んにし、奨励した(例:東照宮祭・名古屋祇園祭(天王)・盆踊り 等)
人道に反する祭りは禁止した(例:梁川の正月の水掛け、国府宮の裸祭厄男 等)
奪い合うことや義に合わぬことを禁止した(例:條々二十一箇条 等)
自分の身にあった遊びは大切であるとした(例:遊廓・芝居・見世物 等)
法律や規制は少ないほうが良いとした(例:規制緩和 温知政要・條々二十一箇条 等)
簡単なミスの訴状等の書類を差し戻さず受け入れるように指示した(例:條々二十一箇条 等)
衣服・家・持ち物等は禁制のある物以外は自由にした(例:條々二十一箇条 等)
ファッションリーダーを自ら担った(例:申楽(能・狂言)・歌舞伎・朝鮮通信使等の衣装 等)
心を込めた贈答・饗応を大切にした(例:條々二十一箇条 等)
庶民と上級藩士が出会う場を提供した(例:御下屋敷や市谷邸のお披露目 等)
商人との対話を積極的にした(例:岐阜巡行・乾御殿や御下屋敷滞在時)
六斎市の奨励(歴代藩主の中で、許可した例が突出して多い)
庶民が喜ぶことをした(例:奴振り・白牛・漆黒の馬と衣装・派手な衣装)
社会的な弱者を大切にした(例:女性・子ども・身分の低い者の保護)
死刑をしなかった
マニフェストであり家訓でもある『温知政要』を執筆し、上級家臣に配布した

当時の幕府の緊縮規制強化の経済政策は、蝗害などにより失敗しており、一方で宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていた。さらに宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして尾張藩で徹底させていった。こうした先手を打つ宗春によって幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣と、尾張藩を持ち上げる朝廷との間で、宗春と尾張藩は徐々に政略的に板挟みとなる。


そのような状況で、実弟の石河政朝が幕府中枢にいた御附家老竹腰正武をはじめとする国元の藩重臣は、宗春の失脚を画策する。竹腰正武は吉宗と計画したと言われるが、実際は吉宗本人ではなく、老中松平乗邑との連携であった。宗春に引き続き、もう一人の御附家老成瀬正泰(当時は正太)が参勤交代で江戸に移った直後の元文3年6月9日(1738年7月25日)、竹腰正武たちが尾張領内で実権を奪い、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし、宗春藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発した。そのために尾張藩領は混乱を起こしてしまう。


この混乱に対し、宗春は琉球畳の祈祷所を建設し、毎日祈りを捧げたという。元文4年(1739年)正月過ぎから、将軍吉宗は恒例の行事を代理に任せて奥に引き篭ってしまう。


そして正月11日(1739年2月18日)、尾張藩の家老たちを江戸城に呼び出し、松平乗邑から蟄居謹慎の内命を受ける。翌正月12日に将軍吉宗からの隠居謹慎命令を広島藩主浅野吉長(宗春の従兄)・水戸藩御連枝陸奥守山藩主松平頼貞(宗春の異母兄松平義孝の娘の茂登姫は頼貞嫡男松平頼寛正妻)、同じく水戸藩御連枝常陸府中藩主松平頼幸により伝えられ、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に、そして名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられる。

宝暦元年(1751年)、吉宗が薨去する。宝暦4年(1754年)、御下屋敷(7万5千坪もある尾張藩歴代藩主の隠居所)へ移る。尾張徳川家菩提寺の建中寺への参拝、尾張藩の祈願所である八事山興正寺への参拝が許される。蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。側室のいづみ(宝泉院:京出身、猪飼氏)と、おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野、尾張藩士鈴木庄兵衛の娘)は最後まで宗春に寄り添った。

宗春が隠居謹慎し、宗勝が8代藩主となると、名古屋は6代藩主継友の時代の法令が復活し、質素倹約が奨励される。そのため、名古屋城下の賑わいは火が消えたようになったとされている。


宗春が隠居して15年が経った頃、小刀屋藤左衛門こと木全雅直が宗春の恩赦を願い出た。その後も、歴代の尾張藩家老成瀬家(犬山城主)の当主なども幕府に宗春の恩赦を願い出ていた。また、宗春が隠居後初めて菩提寺の建中寺に先祖の墓参りに出たのは、宗春隠居後26年後の宝暦11年のことであったが、尾張の町内の者たちは宗春のために提灯を並び立てた。


延享2年(1745年)、吉宗は隠居して大御所となり、嫡男の徳川家重が将軍に就く。吉宗の治世後半の幕政を主導し、宗春を謹慎に追い込んでいった松平乗邑は、老中を罷免された。家重は御側御用人として大岡忠光田沼意次を重用し、それまでの質素倹約による財政緊縮政策が徐々に転換していった。


宝暦10年(1760年)、10代将軍家治が就任する。家治の時代には、幕府の政策は田沼意次が主導し、重商主義政策へと転換していった。尾張藩では、9代将軍家重と同年同月の宝暦11年6月に、8代藩主宗勝が薨去する。そして、9代藩主宗睦が就くと、名古屋は宗春時代の賑わいを徐々に取り戻していく。宗睦は、尾張藩中興の祖とまで呼ばれるようになる。


隠居後も宗春は、将軍吉宗から拝領した朝鮮人参を下屋敷で大切に育てていたが、のち宗睦は宗春が育ててきた薬草園を用いて、名古屋の医学を大いに発展させる。


しかし、宗春を表立って肯定すると将軍家の権威を否定することになり、幕府の権威を傷つけてしまうために、宗春の謹慎は死後も続いた。尾張藩10代藩主の斉朝は一橋徳川家から養子に入るが、斉朝の母方は二条家出身であり、九条家を通して4代藩主吉通の血が流れていた。その斉朝は、宗春を祀る山王社を下屋敷内に創建。通称孚式権現(孚式は宗春の戒名)と呼ばれ、主祭神は宗春、相伝には徳川家康徳川義直であった。明治維新に至るまで、毎年使者が出たお祭りが行われてきた。宗春没後75年の天保10年(1839年)、11代将軍家斉の十二男斉荘が尾張藩第12代藩主に就任する際、宗春の名誉が回復されて従二位権大納言を贈られ、歴代藩主に列せられる。14代藩主慶恕(慶勝)は、下屋敷の薬草園跡に精林庵(現:名古屋市東区、浄土宗無量寿院)を江戸の下屋敷戸山邸より移して、宗春の菩提を弔った。

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