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昭和史の舞台「九段会館」 半分以上残し高層ビルに | NHKニュース

東京・千代田区九段会館は、戦前の昭和9年に「軍人会館」として建てられ、陸軍の青年将校らが首都・東京の中枢を占拠し政府要人らを殺害した昭和11年の二・二六事件で戒厳司令部が置かれるなど、昭和史の舞台ともなりました。
戦後は日本遺族会が運営していましたが、東日本大震災で天井が落下し死傷者が出たことから閉鎖され、土地と建物を所有する国は活用方法について検討するためことし1月、都市計画や建築の専門家をメンバーとする委員会を設置しました。
この委員会は3日、九段会館の道路に面した部分など建物の半分以上を残したうえで高さ75メートル程度の高層ビルに建て替えるとする報告書を公表しました。建て替えにあたっては、洋風のコンクリートの建物と瓦屋根を組み合わせた「帝冠様式」と呼ばれる昭和初期の代表的な建築様式の外観や、玄関ホールや階段なども保存すべきだとしています。
国は、3日の報告書の内容を審議会の場で検討したうえで、早ければことし12月にも、工事に向け入札の手続きを始めることにしています。

九段会館は、戦争の時代、そして終戦から占領期に至るまでの日本の昭和史を象徴する歴史的な建物として知られてきました。
昭和9年に軍人会館として建てられ、直前の昭和6年には満州事変があり、前年の昭和8年には国際連盟を脱退するなど、日本が国際社会のなかで孤立を深めつつあった時代でした。
こうしたなか、容姿は国粋の気品を備え荘厳雄大の特色を表現することが条件とされ、洋風のコンクリートの建物に和風の屋根を組み合わせる「帝冠様式」と呼ばれる建築様式が選ばれました。
当時、ヨーロッパではナチス・ドイツが台頭しつつありました。日本では昭和11年、「昭和維新」を掲げて決起した陸軍青年将校らが部隊を率いて首都・東京の中枢を占拠し、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」が起きました。この事件で軍人会館には、青年将校らの部隊の鎮圧に当たった戒厳司令部が置かれていました。
その後、昭和史は、昭和12年の盧溝橋事件、昭和16年の真珠湾攻撃と戦争の時代に入っていきます。東京も空襲を受けるなか九段会館は焼け残り、昭和20年の終戦後、建物は、一時GHQ=連合国軍総司令部に接収されました。そして日本側に返されたあとは、日本遺族会がホールや宿泊施設などを運営してきましたが、5年前の東日本大震災で天井が落下して2人が死亡し、その後閉鎖されました。
そしておととし、日本遺族会九段会館を運営する根拠となってきた法律が改正され、建物を建て替えて高層化し効率的に利用することが決まりました。また、この法律の改正に当たり、国会では、歴史的に価値のある建物の保存や外観の活用などについて検討することなどを求める付帯決議が可決されました。

3日、九段会館の前を通りがかった人たちからはさまざまな意見が聞かれました。九段会館が建てられたのと同じ昭和9年に生まれたという82歳の女性は「最近の建物と違い九段会館は重厚感があって、できれば耐震化したうえでそのまま残してほしい建物でしたが、仕方がないと思うのでせめて外観は残して建て替えを進めてほしい」と話していました。
また、50年前、九段会館で結婚式を挙げたという近くに住む79歳の女性は「どっしりとした外観が気に入っているので、そのまま残してほしいと思っていました。この辺りの風景が大きく変わらないよう建て替えてほしいと思います」と話していました。