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今出川晴季 - Wikipedia

菊亭 晴季(きくてい はるすえ)としても知られる。

左大臣今出川公彦の子として生まれる。初名は実維。天文14年(1545年)に元服し、将軍・足利義晴からの偏諱を受けて晴季と改名する。

織田信長亡き後天下人となった羽柴秀吉は、はじめ征夷大将軍の官職を得ようとして足利義昭の猶子となる工作をしたものの義昭の拒否に遭い、将軍職を諦めていた。そこで秀吉に関白任官を持ちかけて朝廷との調整役を務めたのが晴季で、これにより晴季は豊臣政権と密接な関係を築いて朝廷内で重きをなした。しかし関白・豊臣秀次に娘の一の台を嫁がせていたため、文禄4年(1595年)8月に秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で自害を命じられ、一の台をはじめとする秀次の一族妻妾が処刑されると、晴季もこれに連座して越後国流罪となった。


翌慶長元年(1596年)赦されて帰京し、秀吉の死後慶長3年12月(1599年1月)には右大臣に還補、慶長8年(1603年)正月に辞すまでその職に在った。元和3年(1617年)3月28日に死去、享年79。

菊亭家 - Wikipedia

菊亭家(きくていけ)は、清華家の家格をもつ公家。今出川家(いまでがわけ)ともいった。藤原北家閑院流西園寺家の庶流。家業は琵琶。江戸時代の家禄は1355石、正保2年(1645年)に300石加増され1655石となり、摂家鷹司家の1500石を上回ることになった。明治維新後は侯爵(脩季が叙爵)。家紋は三つ楓。

江戸時代中期に篠崎東海が表した有職故実解説書『故実拾要』によると、大納言までは「菊亭」を称し、大臣にのぼると「今出川」を称したのだという。

長く「今出川」と「菊亭」の双方を称していたが、明治維新後に改めて「菊亭」を名字とした。

豊臣秀次 - Wikipedia

正室池田恒興の娘・若御前
継室:菊亭晴季の娘・一の台
側室:最上義光の娘・駒姫(お伊万の方)
側室:四条隆昌の娘・於妻御前
側室:淡輪隆重の娘・小督局
  他は下記を参照。

近江八幡市 - Wikipedia

近江八幡市は、豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展した。いわゆる近江商人の発祥の地である。近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並みおよび日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われる。

近江八幡」を冠する神社があるとしばしば誤解を受けるが、地名のもととなった神社名は「日牟禮八幡宮」である。

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山手殿 - Wikipedia

真田昌幸正室

山手殿と昌幸の間に生まれた確実な子女は、長女の村松殿、嫡子の真田信幸(信之)、次男の真田信繁(幸村)だけであり、他の子女に関しては不明である。

菊亭晴季の娘 - 山手殿の出自は真田氏関係の編著では公家の清華家菊亭晴季の娘とされている。しかし当時の真田昌幸の身分は武田信玄の下級家臣に過ぎず、上級公家である菊亭家の娘を妻に迎えるとはまず考えられない。なお、主君である武田信玄正室の実家・三条家と菊亭家は同格であり、この点からもあり得ない。このため、菊亭家の娘としたのは後世の格付けを意識したものとされている。なお、菊亭晴季の娘だったとしても、晴季の生年から実娘とは考え難い。山手殿の出自については、他に以下の説がある。

真田信繁 - Wikipedia

正室:竹林院(大谷吉継の娘)
側室:隆清院(豊臣秀次の娘)
側室:堀田興重の娘または妹
側室:高梨内記の娘

由利本荘市 - Wikipedia
由利本荘市 | 妙慶寺

 戦国武将・真田幸村の娘、顕性院(けんしょういん)「お田の方」が建立したと伝えられる妙慶寺。

岩城宣隆 - Wikipedia

佐竹氏の一族。出羽亀田藩の第2代藩主。

佐竹義重の四男

継室:御田姫(顕性院、真田信繁の五女)

継室 - Wikipedia

呂宋助左衛門 - Wikipedia

本名は、納屋助左衛門(なや すけざえもん)。

特集 インタビュー 呂宋助左衛門 役 松本幸四郎さん 〜38年の時を経て、今〜|NHK大河ドラマ『真田丸』

舞台に立たせていただくにしても、テレビに出演させていただくにしても、年齢だとか時間だとかを、私はあまり考えたりしません。「今」がとっても楽しくてね。思い出になってしまうのが、嫌なんです。でも、いい思い出を持って「今」を生きるって、素晴らしいことじゃないですか。自分の境遇や立場、そして、時代などはもちろん変わっていますが、「これ」と思った信念は変わらないもの、おいそれと変わってはいけないものだと思っています。私にとって呂宋助左衛門は、まさにそんな存在です。再び助左衛門を生きることができ、本当に「今」を強く感じました。「役者冥利」というのでしょうか。同じ役を、違うドラマで演じることができる機会に恵まれた「今」が、人間としても、役者としても、とても幸せだと思っています。

歴史というのは、簡単に言ってしまうと勝者の歴史です。言葉は良くありませんが、歴史に名を残した英雄であっても立派な人物ばかりではなく、その中には、ただこの国をいじくり回しただけの人と、本当にこの国を支え続けた人がいたと思います。それが歴史の中では、すべて勝者、英雄となっている。そんな中で、そうはさせまいと英雄たちと渡り合ったのが助左衛門ですよね。『黄金の日日』では、時の流れの「真実」を、アウトローのような一商人である助左衛門の視点で語りました。秀吉など、よく知られた人物は出てきますが、あの作品では、必ずしも今まで描かれた「定型」にはなっていません。

庶民だって歴史と戦っているんですよ。偉い大将は立派で当たり前でしょう? そうじゃない人間にも品格が備わっているんです。「弱い者の味方」の一商人が、権力者の太閤・秀吉と対抗する。それは人間として最高のことなのではないでしょうか。『星の王子さま』でも言っているように、「本当に大事なことは目に見えない」のです。歴史には残らないけれど、日本をずっと支えてきた人々がいる。『真田丸』も、ちゃんとそういう視点で描かれていますね。こういうドラマが、広がっていってくれると嬉しいなあ。

真田丸』でも呂宋助左衛門は変わりません。登場シーンでは、船子たちが働いているところに助左が帰ってくるところが描かれます。船子に慕われ、信頼されている助左として、38年を越え、自分の中ですっと役に入っていけました。

脚本にすると2ページほどの登場シーンですが、『黄金の日日』がこの1シーンに凝縮されていればいいと思っています。

もっと助左を演じたかったかと問われれば…、正直、そういう時期はもう過ぎました。年齢的にもキャリア的にも(笑)。100のセリフをしゃべったから心に届くかといえばそうではなく、たとえたった一言、たった1シーンだったとしても、大事なものはいつまでもお客様の心に残ります。三谷さんは『真田丸』で、そういう描き方をしてくださいました。出るシーンは少ないですけれども、助左の想いが込められていた。そこには、三谷さんの想いも込められていたように感じました。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160709#1468061101