今夜『真田丸』第34回の放送です!
— NHK大河ドラマ 真田丸 (@nhk_sanadamaru) 2016年8月28日
第34回「挙兵」
[総合]午後8時00分〜
[BSプレミアム]午後6時00分〜
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通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。慶長4年(1599年)3月28日に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗するとさらに家康への接近を強めた。
ところが、ここで清正は失態を犯してしまうことになる。島津氏の重臣である伊集院氏が主家に反旗を翻した庄内の乱において、清正が反乱を起こした伊集院忠真を支援していたことが発覚したのである。庄内の乱は家康が五大老として事態の収拾を図っていた案件であり、清正の行動は家康からすれば重大な背信行為であった。激怒した家康は清正の上洛を禁じて清正が上方に向かった場合にはこれを阻止するように有馬則頼に命じた。翌慶長5年(1600年)に入って清正は大坂に入り、2月13日に有馬則頼と会い(『鹿苑日記』)、その前後には家康とも対面しているようであるが、家康の怒りは収まらず、清正には上杉征伐参加を許さず、国元に留まるように命じている。同年9月の関ヶ原の戦いの際に加藤清正が領国である肥後にいたのは、徳川家康によって事実上の謹慎を命じられていたためである。
こうした事情から関ヶ原の戦い当初は家康と疎遠となった清正が西軍につく事態も想定され、毛利輝元らによる説得工作が行われた。だが、清正は家康に懇願して大坂にいた家臣を会津征伐に出陣する家康の下に派遣しており、石田三成らの挙兵を知った家康はその家臣を肥後に帰して、清正の東軍加勢を認めた。その間にも清正は黒田如水と連絡を取って家康ら東軍に協力する約束を交わし、家康の書状を携えた家臣が帰国した8月後半から黒田軍とともに出陣、小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ52万石の大名となる。関ヶ原の戦い一年余の後に、替地充行状が多発されるようになり、戦時色を払拭し恒常的、安定的な領国体制の再編に向けて動き出していたことが窺える。
関ヶ原の戦いを引き起こした直接の導引は、朝鮮出兵をめぐる現地武将と、中央の豊臣秀吉およびその意向に従って行動する石田三成ら奉行衆との対立であり、慶長の役における蔚山篭城戦を機に顕著となる現地武将たちの戦線縮小―撤兵路線をめぐる軋轢と政権の内部分裂であった。
関ヶ原の戦いで争った二派は、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍である。東軍・西軍の諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、この戦いの性格について家康は豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をとり、また、豊臣家も表向きは静観の立場を取った。しかし、この戦いは実質的に徳川家康の覇権を決定づけることとなった。