いつもこれについては不満に思うので一言記しておきたい。中学生高校生でもわかるように教材を作るのは全然簡単なことではない。なぜ僕がそういうことにひっかかるかといえばFeynmanの講義準備が念頭にあるからだ。難しい事を難しくしか言えないのは、その人が何も理解してない証左に過ぎない。
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年6月5日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170605#1496659174
この疑問に対する答えはアメリカ留学中に得られた。同じ研究室にいたドイツ人やアメリカ人のポスドクと話をするうちに分かってきた。彼らは初等教育の時にessay(日本でいうエッセイとは本質的に異なり、論文のdiscussionに近い)を書くことによって論理的な考え方を徹底的にたたき込まれているのである。論文が上手に書けるのは、小学校レベルから同じようなことをやっているからである。特にsocial sciencesでは事実を覚えるのではなく、それらを基にessayを書くのが勉強であり、地名や年代などを暗記する日本の教育とはかなり異なるようである。
彼らとlunchにいくと非常に勉強になることが多かった。日本のことを話題にすると、必ずwhyと言われて質問攻めにあった。彼らにとっては新たな事実を知ること以上に、その相互関係、因果関係を知ることがさらに重要であった。Lunchの時に話すことは習慣や文化に関するたわいもない話題が多かったが、この会話を通して論文のdiscussionの構成や考え方のヒントが得られることが多かった。彼らは、事実を色々な形で並び替えて、論理的なストーリーを作り、新しい考え方や見方が出来上がって、初めて「分かる」のである。
Feynmanは明らかにその場で「考え」ながら講義している。普段からどんなことに対しても深く考えているからできる講義であろう。物理学の教科書にはどんな物でもほぼ同じことが書かれているが、Feynmanがこれらの事実をどの様に捉えているのかがよく伝わってくる。この講義はCaltechのFacultyには非常に評判が良かったらしいが、学生の評判は、非常に素晴らしいというものから、全くつまらないと言うものまで、色々だったらしい。
ただ、この講義を基にして作ったFeynmanの物理学の教科書があるが、それを読んでみてもそれほど面白いわけではない。生の声で聞いてみて初めてその面白さが分かる。語るときの間の取り方など、文章には表現できない部分からも考え方が伝わり、それが面白さを感じさせるストーリーの一部になっているのだろう。
講義で板書するようにしているのは昔受けた数学の講義がヒントになっている。数学の講義は、大学で受けた数少ないまともな講義であった。数学の講義では最終的に板書されたものは教科書とそんなに違わない。しかし、先生が講義をしながら、板書するのをみていると、途中で検算したり、分からなくなると横で別の計算をしたりと、出来上がるモノを実際どういう風にとらえているのかを垣間見ることができる。
「事実を単純に羅列してもらったほうが暗記しやすいのに、話す内容をごちゃごちゃと関連づけられると頭が疲れる」というコメントもあった。「術語を覚えてしまえば、試験で点数がとれるので、無理に話をこじつける必要はないのでは・・・」という趣旨のコメントもある。自分が伝えたいのは話の流れであり、教科書に書かれている用語の説明だけを教えているつもりはない。用語の定義・説明程度のことは教科書に書いてあるので、後でじっくり読んでもらえれば良いわけである。実は、こういうコメントを寄せる学生にこそ、物事を論理的に考えることを伝えたいと思っている。しかし受験勉強を経たばかりの大学一年生、特に受験勉強の得意だった学生達に、勉強には暗記以外の要素があることを伝えるのはなかなか大変である。
自分の講義を振り返ると、ジャズの演奏のようだと思うことがある。ジャズでは和声進行だけ決めて即興で演奏するそうだが、自分の講義でも枠組みだけを決めて、後はその場で考えながら話をしている。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170605#1496659172
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170605#1496659173
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170107#1483785482
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20100109#1263025024
Maxwell方程式のファインマンによる「証明」: Fallen Physicist, Rising Engineer
ファインマンによるマクスウェル方程式の「証明」 - 北里大学
1948 年 10 月 31 日,コーネル大学の彼の部屋で,ファインマンはプリンストンからやってきたダイソンを前に,ある講義をした。その内容は「粒子に対するいくつかのもっともらしい量子力学的方程式の仮定の下に,マクスウェル方程式を証明・導出する」という驚くべきものであった。
私たちは通常,マクスウェル方程式に限らずニュートン方程式とかシュレーディンガー方程式などいわゆる基礎方程式と呼ばれるものは,「導出される」ものではなく,与えられたものとして「仮定する」ものであると教わる。時には,それらが成り立つ状況証拠についての物理的な議論や,発見法的な推論が提示されることもあるが,それらは数学的な証明とは言い難い。また,作用積分の変分によるオイラー・ラグランジュ方程式として「導出される」こともあるが,この場合には出発点となるラグランジアンを選んだ段階で,方程式は与えられたに等しいとも言える。
ファインマン自身は当時この仕事の価値について否定的で,公表することなく終わってしまった。この仕事が公になったのは,ファインマンの死後にダイソンが「コーネルにおけるファインマン」と題した講演でそのことに触れてからである。その詳細についての問い合わせの多さに促されて,ダイソンは「Feynman’s proof of the Maxwell equations」と題する論文を発表したのである。
http://signallake.com/innovation/DysonMaxwell041989.pdf
どうして読んでみようと思ったのかは忘れてしまったけど、大学に入ってまもなくこの本に出会って、それまで断片的に学んできた数学と物理の知識が、やっと全部ひとつにつながった気がしたなあ。#GWはファインマンでもよんでみるか https://t.co/6f3UXgMsdl
— 山中俊治 Shunji Yamanaka (@Yam_eye) 2017年4月16日
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