日本の「縦割り法学部」へようこそ 分断された専門の弊害 - 法と経済のジャーナル Asahi Judiciary https://t.co/qQMU7Qlr8N
— 法と経済のジャーナル AJ (@asahi_judiciary) 2017年6月24日
いわゆる“ランクの高い”日本の4年制大学で私は15年間学生たちを教えてきたが、「刑事と民事はどう違うか」、「憲法と普通の立法はどう違うか」といった基礎的な問いを投げかけたとき、学生たちから何の反応もないことに、もはや衝撃を受けることはなくなった。
思うに最上級の大学に入学するということは、平均以上の知識や勉強のスキル(少なくとも試験に合格するためのスキル)を身につけているということだ。大学3年生、あるいは4年生までには、刑法、種々の民法、そして憲法の授業をすでに履修しているにもかかわらず、法制度はどのように機能しているのかという最も基礎的な質問に、なぜ彼らはあんなにも困ってしまうのだろう。
この問題を考えるとき、私はよく「群盲象を評す」というヒンドゥー教のたとえ話を思い出す。
私がハーバード・ロースクールの1年生だったのは40年も前のことだが、私も他の学生たちも、日本の法学部の学生たちとは違い、Contracts(契約法)、Torts(不法行為法)、Property(財産法)、Criminal Law(刑事法)といった1年次の必修基礎科目は、コモン・ローという大きな枠組みの中ですべて相互に関連していることにすぐに気づかされた。日本の大学の法学部と違って、アメリカのロースクールは、学生たちと教授陣が互いの専門分野を超えて議論をする活気に満ちた知的な舞台なのである。良いアメリカのロースクールを卒業した人は、“Contracts”や細々とした法規を集めた自給自足的なその他の法律を学ぶのではなく、個々の法律の科目や分野を超えた知識、スキル、そしてツールにあてはめていくことで、法律の問題をどのように分析、議論し、そして解決に導くのかを学ぶのである。
多くのアメリカのロースクールの学生たちは卒業までに“弁護士のように考える”ことを学ぶ。他方、日本の大学の法学部の卒業生たちは果たしてそれを学んでいるのだろうか。 “弁護士のように考える”ことが実際のところ何を意味しているのか、そもそも教授たちがわからないのである。一部の例外を除いて先生たちは実社会で弁護士業務の経験がないのである。日本の大学の法学部の募集要項やウェブサイトにはよく“リーガル・マインド”を鍛える、と書かれているが、日本の現実の法律の教育に詳しい人たちは、この主張が誇張であることを認めている。
私はコーポレート・ローヤーとしてもう1足のわらじを履いているが、クライアントのためにより良い仕事をする際には、実際の諸問題を解決するための総合的なアプローチが求められる。現実社会における複雑な論争や取引は、個々の法規にあてはめることだけでは解決できないのだ。良い弁護士はまずジェネラリストでなければならない。患者と向き合ったときに、患者の体のひとつの臓器、あるいは体の一部分だけを見るのでなく全体を見ることのできるのが良いドクターであるのと同じように、である。すべては相互に関連している。
豊かな教養人は全てがつながっていることを理解し、予期せぬつながりを見つけることに喜びを感じさえする。この基準で考えると、日本の法学部の教授は学生たちに、豊かな教育を授けたとは言えないだろう。これからの法学部の学生たち、そして彼らのご両親は、日本の大学で法学を専攻することの知的な面での価値、そしてキャリアを考える上での価値について注意深く考えた方がよいのではないか。これは私からの切実なアドバイスだ。私が教える学生たちの多くは、大学での授業が退屈で授業を通して学んだことをほとんど覚えていないとためらうことなく認めている。
【6・7・8・9月に一般人化したら、来年は諦める】
— 成川豊彦 (@narikawatoyo) 2017年6月23日
夏場に学習の基礎体力をつけておけば、年末・年始・直前に学力がピークに上る。合格は、有望である。逆に、夏場に遊べば、結果は惨たんたるもの。こんなことは、中学生でも分かる。しかし、司法試験・予備試験ではかなり見かける。困る。 #合格
さて講義に向かおう。三時間だけとやと、なんか短いとか感じてしまう自分がいる
— 赤木真也 (@akagilaw) 2017年6月24日
まず自分で調べる。そこからでしょ
— 赤木真也 (@akagilaw) 2017年6月24日
出題される問題からして本物と傾向が全く違ったので、模試自体を信頼していなかった。あの頃、辰巳の模試を受けに行くベテラン受験生の人たちに「本物と違うものをいくら受けても意味ないじゃないですか。その時間を使って勉強した方が良いですよ。」と言っても「大胆なこと言うな」という扱いだった。
— 渡辺輝人 (@nabeteru1Q78) 2017年6月24日
そういうふうに思うのも根拠があって、模試の問題作りをやっているのは「論文落ち」(択一合格者)の人だったり、司法試験合格者であったり、司法修習生であったり、若手のマチ弁の小遣い稼ぎだったりするので、法務省の検察官が高い賃金をもらって専従で作る問題と質が異なるのは当然だったのである。
— 渡辺輝人 (@nabeteru1Q78) 2017年6月24日
司法試験のレベルになると、もはや試験問題を真似して模擬でやることすら困難なくらい、層の薄い世界なのである。そういうことは、あの世界に浸かっていれば分かるはずなんだが・・・。と思っていた。
— 渡辺輝人 (@nabeteru1Q78) 2017年6月24日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170623#1498214630
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170623#1498214631
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170623#1498214632
#勉強法
そもそも論で、新試の時代は分からないから別として、旧試の時代に司法試験を受けて弁護士になろう、などという時点で、日本社会のエリートコースの中ではかなり異端であり、ある意味落伍者なのである(笑)
— 渡辺輝人 (@nabeteru1Q78) 2017年6月24日
私が大企業に入ろうと思わなかった理由だって、日本の組織で上手くやっていける自信が皆無だったからである。
— 渡辺輝人 (@nabeteru1Q78) 2017年6月24日
今頃高校生をやっていたら、早いうちに海外に目を向けていたかもしれない。
— 渡辺輝人 (@nabeteru1Q78) 2017年6月24日
でも、法曹界に入ってから周りの人の出身高校を聞くと、国立大学の付属か、私立の有名どころか、県立のトップ校ばっかりだよ。私みたいな県立の二番手校はかなり少数派。上智大学ですら少数派。
— 渡辺輝人 (@nabeteru1Q78) 2017年6月24日
司法試験に合格して、司法研修所に入ると、さすがに「頭のいい人たちの集団」という感じがした。誰としゃべっても、小中や高校や大学の友人たちとはちと違った。なるほど、エリートとはこういう人たちをいうのか、と思った。
— 渡辺輝人 (@nabeteru1Q78) 2017年6月24日