哲学者ではなく哲学家という言い方をする若者がいるのが気になっている。
— 千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 (@masayachiba) 2017年6月27日
哲学的ゾンビって妙に若い人に好まれる用語で、なぜだろうと思っている(現代生活は人を機械的にしているという感覚だろうか)。あと、本来の意味から離れて、哲学的ゾンビって、「なんだか哲学的なことをゴニョゴニョ言っているやばいやつ」みたいな間違った意味も生じてるんじゃないかと予測。
— 千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 (@masayachiba) 2017年6月27日
只管活字を読んではくっちゃべってる魂の抜けた人間。
それが哲学であり学問であると称して啓蒙活動をしている。
すると聞かされた若者は論理的に考えられなくなり抜け出せなくなる。
そして、このマトリックスはコンピューターが作った虚構世界だということ。
「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」と定義される。
哲学的ゾンビという言葉は、心の哲学の分野における純粋な理論的なアイデアであって、単なる議論の道具であり、「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験(意識やクオリア)を持たない人間」という形で定義された仮想の存在である。
仮に“哲学的ゾンビが存在する”として、哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。それは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。もし区別できたならば、それは哲学的ゾンビではなく行動的ゾンビである。
しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「苛々する」という意識も持つことがなく、“意識(クオリア)”というものが全くない、という点である。哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。
スーザン・ブラックモアの考えでは、(受け入れることは難しいが)意識とは錯覚であり、自我を持つ誰かなどはおらず、「私」が存在するような気がするときはいつも、その「私」は一時的な虚構にすぎず、また脳を構成する物質は物理法則に縛られているので私たちに自由意志はない。もしこの仮定が正しいものであれば、人間は生まれた時からの環境外部の入力とその反応の出力の積み重ねによっていまここに生きている哲学的ゾンビの存在そのものである。