内田貴が実務家に債権法改正法の話をすると
実務家は、まず最初に
「改正の必要があるのか」と言われ、
次に
「会社法みたいにするのか」と言われたという
内田は、経済界や世論からの要請に応えて行う立法ではないことを明言して立法事業に取り組んでいたが、かえって実社会の混乱を犠牲に自説の立法化によって歴史に名前を残そうとする「学者の野望」であると受け止められ(初出は経団連経済基盤本部長阿部泰久の発言)、その目的・内容・手法について財界・学会・法曹界から激しい批判を受けることとなった。
これらの批判に対し、内田は世界的にグローバリゼイションが進行する状況で、法の支配を日本の隅々まで行き渡らせることを目的に司法制度改革が進められてきたこと、民法の大改正はその司法制度改革の総括といえるべきものであり絶対にやり遂げなければならないこと、その時期も日本が世界に先駆けて改正することが最も重要であり、このことがひいては日本の発言権を確保するための国家戦略になること、国民一人一人が直接民法の条文を読んで理解できることになることが国民の利益になるなどと反論をしている。もっとも、このような考え方の萌芽は後掲『契約の時代 - 日本社会と契約法』で既に明らかにされていた。
また、内田は、星野の「日本における契約法の変遷」『民法論集6巻』に触発されつつ、これを更に深化させた。すなわち、関係的契約理論の立場から、意思主義と単発的な契約をモデルにした古典的契約観に基づく法律を継受した我が国には、それとは別個の同胞に対する同情と共感に満ちた日本的契約観に基づく生ける法があり、それは信義則の適用という形で判例や特別法に表れているとし、古典的な契約法の死と日本固有の契約法の再生を説いた。
しかしながら、その後10年の間に規制緩和に基づく国際的な法統一の動きなどによって世界の状況は一変し、内田の予想に反して、むしろ古典的な契約法が日本社会を隅々まで席巻するような状況になったが、内田は、これに対し、日本固有の契約法が実は世界的に普遍的なものであるとのメッセージを発してアンチテーゼを提出すべきだと主張するに至った。
関係的契約理論では、契約には単発的傾向が強いものから関係的傾向の強いものまで諸種が存在すると考え、契約はそれぞれ単発性の極と関係性の極をもつ契約のスペクトルの間に位置づけることが出来ると説明する。
単発的契約とは、現在化が可能でかつ単発性を有する契約のことをいう。
現在化とは、契約締結時に、将来起こる可能性のある事柄すべてを予測することをいう。また、単発性とは、契約当事者が過去にも将来にも関係性を有しないことをいう。
具体的に単発的契約とは、株式取引やスポット取引のような短期的個別的取引で、契約内容やその義務、不履行時の義務の内容が明確な契約のことである。完備契約と似ているが、それよりも狭い概念である。
もっとも、「異国の地における高速道路のガソリンスタンドでの給油」でさえ、当事者の間にいくらかの関係性が生じるので、完全な単発的契約は現実には全く存在しないと考えられている。
契約は「ビリヤードの玉を突く」ようなものであり当事者の人間関係は「蜘蛛の巣状」であるから、すべての契約は関係的契約であると考えられている。
現在、日本を含む各国の研究者が、契約のスペクトルや共通契約規範といったアイデアを契約の分析ツールとして活用し、それぞれアレンジした関係的契約理論の拡張や展開を試みている。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170704#1499164372(戒能通厚)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170628#1498645980(深見東州)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170623#1498214629(小宮一慶)