バスチアンは一人の個人でありたかった。他のみなと同じ一人ではなく、一人の何者かでありたかった。バスチアンがバスチアンであるからこそ、愛してくれる、そういうふうに愛されたかった。イスカールナリの共同体には和合はあったが、愛はなかった。『はてしない物語』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月14日
自分が誰か、自分の世界がどこなのか、バスチアンには、今再びわかった。新たな誕生だった。今はあるがままの自分でありたいと思った。そう思えるのは、何より素晴らしいことだった。あらゆるあり方から一つを選ぶことが出来たとしても、バスチアンは、もう他のものになりたいとは思わなかっただろう。
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月14日
今こそ、バスチアンにはわかった。世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局のところたった一つ、愛することができるという悦びなのだと。愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだ。 『はてしない物語』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月14日
ミヒャエルは「神に似た者は誰だ?」を意味する。ミヒャエルは、大天使の中で唯一、その名が問いなのだ。悪魔はこの問いに答えられない。これが大天使の剣である。アダムとは「私は似る」を意味する。この私(自我)が神の像に似せて造られたものである。それはエックハルトがいう"魂の火花"なのだ。
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月15日
神が最高の仕方で書くには何も書かれていない板が最適であるという。極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら創造の以前より存在する魂の火花が働き、魂の根底に神の子の誕生(神の子としての転生)'が起こる。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170713#1499942120
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170625#1498388043