批判するつもりではありませんが、私は日本のファンタジー作家と呼ばれている人たちと、何人か知り合いました。その印象で言うと、ファンタジーというにはちょっと軽率で、ただの作り物、愉快な遊びにすぎないような事柄をファンタジーと言ってしまっている。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月18日
見かけ上の現実らしさ、表面のリアリティーを諦めるとしたら、では舞台の芝居で本当にリアルだといえるもの、確かな現実だと納得させられるものは、どこに表れることになるんだろう?という問いです。そのさいの説得力ある現実性は、精神世界のリアリティーでしかありえません。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月18日
私に言わせれば、現代人がやたらと論を唱えたり教訓を垂れようとするのは、まさに真の精神性をなくしてしまったせいなんです。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月18日
例えば、ごく普通の会話の場面があるとします。その普通の日常会話が次第に韻文に移行していきますね。すると、もう自然な言葉ではなくて、様式化された言葉になってきます。それからもう一段レベルを上っていくと、アリアとか歌に移行します。こういう移行の可能性が、私には大いに刺激的なんです。
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月18日
進歩とか改革というのは、一人一人が自分と他者との違いのゆえにこそ、お互い対話できるという状況のことです。それによってお互いの思考が豊かになる。そんな豊かさは今までの世界に一度もあったためしがありません。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月18日
ファンタージエンの国ではすべてが意味をもち、偶然性はなにもありません。で、この別世界を巡り巡って、彼のオデュッセイ探検をします。それを通じて彼に力が生じる。それは日常世界のファクトにも意味を獲得させうる力なのです。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月18日
たとえばバスチアンのお母さんは死んでいますが、彼の日常では母の死すらも意味を持っていません。バスチアンが通う学校の授業もファクト、ファクトの集成で、意味を持たない。そういう世界にバスチアンは生きることが出来ない。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月18日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170717#1500288278
ここで子供時代から一番驚異だと思い、今日でも同じように驚いていることを話しましょう。それは「話すことができるということ」「理解できるということ」です。これはものすごく不思議なことですよ。 『エンデの文明砂漠』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月17日