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「私は、初演スタッフの最後の1人になった。その意味では、この45年の区切りに対し、自分の中で大変大きな責任を感じています」

 特にここ5年、45年という月日の長さを痛感する、悲しい出来事が相次いだ。初演時のスタッフが相次いで亡くなった。「衣装、照明…、もう誰もいない。1人だけ生かされている僕が“ベルばらの未来”の可能性を考えねば。一緒に頑張った方々が『50周年に向けて、どうする?お前』と耳元でささやいてくださっているような気がするので」

 次代の人々に、あらためて初演時の状況や思いを、伝える必要性を感じている。「生徒やスタッフたちに、あのときの厳しさ、熱気、責任感、必死さをもう一度、伝え、それを聞いてどう感じてくれるか。宝塚の舞台の原点を残すことが、今の宝塚には大切なことのように思うんです」

 創立百周年の勢いそのままに、好調を続ける宝塚。昨年度の宝塚大劇場の入場者数は、過去最高の119万人に達した。が、ベルばら初演前の70年代は、赤字続きで苦しい状況だった。

 「皆さん、おっしゃらないけど、歌劇団自体が存在できるかどうかの瀬戸際でした。毎年のように赤字で当時はハッキリ言って厄介者のような存在でね。このままでいいのか、という危機感をスタッフも生徒も、全員が持っていました」

 そんな折、長谷川一夫さんと交流があった植田さんの橋渡しによって、長谷川さん演出、植田さん脚本で、71年に「我が愛は山の彼方に」を上演し、好評を得た。長谷川さんとのタッグは「歌舞伎と違い、演劇では技術を継承することがほぼない。天下の二枚目の魅力、魅せ方の秘訣が、先生一代で終わるのはもったいない。宝塚の男役に色々なことを教えていただきたいと思って始まった仕事でした」と振り返る。

 すると、長谷川さんから植田さんと宝塚で再タッグを、との要望があるので新たに企画を出してほしいと、プロデューサーから言われた。今度は洋物がやりたいとも。植田さんは熱くなった。「冗談じゃない。いくら観客の入りが悪くても、宝塚には洋物の歴史がある。こちらが教えても教えていただくことはないと、その場はお断りしました」

 が、その後、1人で冷静になって考え、「いつもの宝塚の洋物ではなく、徹底的に様式美を見せる洋物なら、長谷川先生の舞台で見せていただいている世界に共通するのではないかと思いました」。そこで何か企画のネタはないかと、自宅の本箱を探し、見つけたのが漫画家、池田理代子さんが「ベルサイユのばら」を連載していた、少女漫画誌週刊マーガレット」。東京の宝塚ファンから、送られてきたものだった。

 「その子から、以前からずっと、宝塚でベルばらをやってみては言われていました。まじめな子で、自分が読んだら毎週、大阪まで送ってくるんですよ」。現在のように、漫画が日本が誇る文化という評価を得ていなかった頃。植田さんも初めは「漫画を宝塚で、なんて…」と思っていた。

 だがあるとき、ふとページをめくり、「ベルサイユのばら」を読んだ。王妃マリー・アントワネット男装の麗人の軍人、オスカルらを軸に、フランス革命の波に巻き込まれていく人々を描く。激しく心を揺さぶられた。「この作家は自分のイメージだけでなく、まじめに、ていねいに歴史を調べて描いていることにとても感動したんです」

 長谷川さんとの再タタッグにあたり、「漫画というものに、真剣に取り組まれている方が描いた作品に携わることは、僕自身のプラスにもなると思い、歌劇団に提案しました」。

 激しい反対にあった。スタッフは男性ばかりゆえ、もちろん、少女漫画の“ベルばら”を知らなかった。「一体、それはなんや、フランスといえば、ユリの紋章のユリやろ。バラなんて題名はおかしい、というぐらいの時代で」と苦笑い。

 不倫、という言葉が一般的ではない頃。長谷川さんは「女王が他国の男性と情を通じるなんて。清く正しく美しくの宝塚では、絶対にダメです」と言った。長谷川さんには最後まで反対されたが、植田さんは懸命に説明。「池田さんの描きたい世界はそうじゃない。美しい夢があった哀しい女性の話なんだと。最後は、厳しい状況下、“何か新しい、残ることをしよう”と集まったスタッフの思いで、走り出しました」

 結果、空前の大ヒット。劇団は認知度、収益だけではない、大きなものを得た。宝塚の男役スタイルの基盤となった、みえを切るなどの“魅せ方”だ。「先生は実際に舞台に立つ人なので指導が具体的で、生徒(劇団員)たちに分かりやすいんですよ」

 再演の際は毎回必ず原作を読み直し、心に残ったことや、その時代の自身を投影しながら手を加えると、自然に作品は、進化していく。決して、同じところにとどまらない。それは、植田さんの作家としての原点に起因している。

 20代のあるとき、終演後の楽屋にいた。すると、当時の劇団理事、小林米三さんがやってきて、植田さんの手を取り、舞台の中央まで連れていった。3階席を指さした米三さんは「どないしたら、あそこまで客が入るねん」と言い、そのまま出て行ったという。

 「きっと当時も劇団の経営は苦しく、役員会などで厳しい意見を言われていたと思うんですよ。ものすごく心に残っています。僕の創作のテーマです。どうすれば、社会性を持った、お客さまに喜んでいただける作品を作れるかを考えている」

 2015年の台湾公演でのベルばらを上演。終戦70年の公演でもあった。「主題歌のように、愛があれば世界はひとつ、人は美しいことをテーマにしました」。戦中を経験した植田さんは疎開先の福井で空襲にあったとき、兵隊の指示のもと、焼けた遺体をトラックに乗せる作業をした。次第に無感情で作業をする自身に気付き愕然。その数カ月後、終戦。再開した宝塚の舞台を見て心が震え、人を感動させる仕事をしたいと思ったことで、今の自身がある。

 「よく言うんですが、(戦時を経験した)僕らは戦争中、敗戦時、食べるものも、着る物もなくても、その辺の草食べて、何とか生きてきたんだから。何かあったときは、しぶといで。みんなの方が先に倒れるで、と」と笑う。

 もちろん、経験していない人には、真の意味で分からないことと、理解している。それでも伝えねばならないとも。「何かのときに、きっと役に立つことはあるはずだから」

 今は、先人が苦労して作り上げた基盤あり、物も豊富。「これから何年も続いていくためにも、彼女たちのハングリー精神を知って、残して、伝統としておかないと。守られてきていますから、強風がきたときに、折れてしまうので」と警鐘を鳴らす。

 「いま社会情勢は混沌とし、天災も。最後に大切なのは1人1人の心です。ベルばらに描かれる人物は決して逃げない。彼らの生き方を、お客さまが、自分自身やそのときの日本に置き換えて見ていただけたら」

 「ただのお祭りにはしないで、未来を語るものにしてほしいとお願いしています。年代ごとに当時の社会情勢を交えながら、何か問題提起できないかなと。皆さんも、我々も、今後の道筋も開けてくるものにしたいと思っています」

我が愛は山の彼方に - Wikipedia

10世紀の高麗。高麗の武将・朴秀民と婚約者・万姫は、桃の花が咲く頃に婚礼の予定だった。秀民が居ない間に万姫の住む地方が女真国の軍に襲撃され、万姫は女真へと連れ去られる。秀民は婚約者を奪った女真への復讐のため軍務に没頭する。

一方、女真に連れ去られた万姫は、女真の武将チャムガの配下にあった。真摯な武人であるチャムガは万姫を丁重に扱い、高麗へ返すことを約束する。だが、一度敵の手に落ちた女が、敵に何もされなかったと信じてもらえる訳はなく、まともな女として扱われないことを知っている万姫は、祖国へ帰ったとしても幸せになれないと思い、チャムガの恩恵にすがって生きることを決意する。やがて万姫の境遇に同情したチャムガは、万姫への密かな想いを募らせていく。

チャムガの婚約者のジュリメは、その想いを察知して、嫉妬のあまり万姫を暗殺しようとする。ジュリメの兄でブルテ国王は、そんな妹を哀れみ、チャムガに万姫を高麗へ返すことを許すかわりに、高麗へ再び攻めるように命令する。

生真面目なチャムガは、万姫を高麗へ戻すために高麗に攻め込むが、それは勝算のない戦いだった。復讐を果たすためだけに生きてきた秀民は罠を仕掛けて女真軍を壊滅に追い込み、秀民とチャムガの一騎討ちとなり、秀民が勝利を収める。

万姫は秀民の元に返されたが、万姫は秀民の元に戻れたことを素直に喜ぶことができなかった。

宝塚歌劇団・稔 幸, 星奈優里 & 絵麻緒ゆうの「星組 大劇場('99)「我が愛は山の彼方に/グレート・センチュリー」」をiTunes

手塚治虫 - Wikipedia

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20120426/1335449951(文芸は,ものに感じる心を素直に表現するものであり,心情の発露をすなおに味わえばよく,それを道徳的に判断するべきではない。『源氏物語』の主人公光源氏と多くの女性との恋愛は,そこに表現された恋の美しさを味わえばよいものであり,光源氏もののあはれを知る「心ある人」なのである。)


https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/09/28/200210小川榮太郎手記「私を非難した新潮社とリベラル諸氏へ」)