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 この東京出店で価格を安くできるモデルを構築できたと思っている。特に重要だったのは、店舗については「家賃はタダ」というものだ。


 1970年頃に「中山律子・須田加代子」が起こしたボウリングブームは、73年頃には下火になり、経営不振にあえぐボウリング場が続出した。そうした駅前に近く、フロア面積が大きく、それでいて業態転換などに苦しんで家賃が下がっている施設を狙う。メーカーとの直取引は粗利が高いので、売値を1割下げても売上高が増えれば家賃はあっという間に元が取れる。これが「家賃はタダ」の発想だ。東京に出て、売上高はそれまでの20億円から、2年間で100億円に増えた。


 以後、大塚家具の出店地は、この業態転換に苦労している建物を確保するという方針を貫いている。70年代はボウリング場、その後は駅前の量販店、バブル崩壊後はウォーターフロント、そして90年代後半からは百貨店跡への出店だった。


 そうした方針の最大の成果が、現在、大塚家具の本社兼旗艦店となっている「有明本社ショールーム」だろう。


 1996年に東京臨海副都心で開催される予定だった世界都市博覧会は、バブル崩壊の直撃を受けて中止された。都が見込んでいた臨海部のオフィス需要も萎み、空いていたのが東京ファッションタウンビル、つまり現在の有明本社ショールームだ。


 当時、大塚家具は東京・日比谷の朝日生命日比谷ビル(現・日比谷マリンビル)に本社を移し、そこに1170坪の「日比谷ショールーム」を開いていた。対して有明は広さが7020坪と日比谷の6倍あり、しかも家賃は日比谷と同等だった。


「品質の良い商品を世界中から集め、大塚家具にくれば他の店に行かなくても自分の好みの家具を揃えられ、しかも値引きなしの実売価格」という事業の夢は、すべて有明を基盤に展開できるようになった。実際、有明ショールームの開店日には長蛇の列ができた。

 93年、大塚家具は「日比谷ショールーム」を開店した。このとき出店したのはオフィスビルで、小売店舗を許可していなかった。そのため、お客さまに来ていただくためには入口で名前と住所を書いていただく必要があり、これが「会員制」という形になったのだ。かつての大塚家具の代名詞ともなっていた会員制は実はやむを得ない事情から生まれたものだった。


 ところがこれが“怪我の功名”となった。「会員登録をしたお客さまだけを対象に値下げ販売する」という言い方で、お客さまに、適正価格での販売を開始するきっかけができたのだ。


 しかし、これで業界は騒然となった。あらゆるメーカーが「商品を引き揚げる」と怒り、実際、ショールームから商品を引き揚げるメーカーが続出した。私の試みに異論がある社員もいて、「こんな業界慣行を無視した商売をしていたら、この会社は潰れる」と辞めていった社員もいた。


 だが、私はここで後戻りすることはせず、日比谷ショールームの開店から半年もせずに大塚家具の全店舗を会員制ショールームに転換した。すると、メーカーの不満は抑えきれないほどに強まり、他の店舗でも商品を引き揚げられる動きが頻発した。


 そんな状態だったが、私は会社の危機は全く感じていなかった。なぜなら、会員制の導入以後、お客さまの満足度や信頼の高まりを日に日に強く実感できていたからである。


 会員制では、お客さまに会員登録をしてもらい、来店時にはお客さま一人ひとりに担当が付いてご案内し、家具や寝装品などをメーカー希望小売価格の2〜5割引で販売した。彼らは「お客さま」とは呼ばず、お客さまの名前で接した。それは行き届いた接客サービスでは当然のことだ。


 会員登録は、営業活動を緻密にする効果もあった。ご購入後には、お礼状や季節のご挨拶を出したり、インテリアでお困りのことなどをお伺いした。するとご友人を紹介してくださることもあった。


 結局、会員制による実売価格の断行は、お客さまの「品質の良い家具を安く手に入れたい」という心理に訴えるものになったのだ。

「会員制による、値引きなしの実売価格」により、大塚家具に商品を納入してくれないメーカーが続出した。しかし、これも怪我の功名で、このことをきっかけとして大塚家具はさらにもう一つの個性を手にすることができた。輸入家具の販売だ。


 大塚家具が最初に輸入家具の取り扱いを始めたのは、83年に平塚店を出店したときだった。駅前の百貨店跡の店舗を借りて出店したのだが、国内家具だけを扱うと地元商店街の家具屋さんと競合してしまう。そのため出店の際に、「輸入家具を扱うこと」という条件を付けられたのである。その頃の輸入家具は価格が高く、大塚家具の売り上げを牽制できると見たのだろう。


「それならば海外で買い付けてやる」と意地を見せて欧州に飛んだら、品質の良い家具が実に安い。日本の数分の1だった。つまり日本では現地価格の数倍で売られていたのだ。

 そうした経験を何度か積み重ねて、輸入家具の販売を本格化させたのが有明ショールームが開店した96年だ。当時は円高が進み、ものによっては内外価格差がゼロということもあった。メーカーとの直取引だから、同じ家具でも同業他社の半額で売れた。それでも利益が出たのである。

 読者の皆さんもご承知の通り、現在の日本の家具業界は、イケアさんやニトリさんが成長を続け、若い人たちはいわゆる“断捨離”でモノを所有しない風潮がある。「家具って必要でしょうか」と言う人も珍しくない。


 確かにニトリさんとイケアさんの快進撃によって街の家具屋さんはどんどんなくなっている。ここで問題なのは、家具業界では数百万円もする高級家具と、数万円の普及品しかない状況になり、中間価格帯製品を売る店がどんどん減っていることだ。

 消費者の商品を見る目は非常にシビアだ。だが、価格だけで商品価値を判断されているかといえば、決してそうではない。良い品質で、なんとか頑張れば手に入りそうな価格であれば、そこに需要はある。それが私の言う、中間価格帯製品であり、私がトップでいた頃の大塚家具はそれを目指してきたし、今の匠大塚でも、その考え方に変わりはない。


 ニトリさんは、「お、ねだん以上」をキャッチフレーズにコストパフォーマンスを前面に打ち出している。対して匠大塚は「確かな価値との出会い」だ。ただし、同じ製品であれば、匠大塚は最低価格を保証している。同一商品であれば匠大塚の方が絶対に安い。それに社員の説明や配送、アフターフォローがあり、お客さま対応では私たちは絶対的な自信を持っている。


 それは買ったお客さましか分からないことかもしれない。ただ、分かっていただければ静かに支持の輪は広がるし、そのためには辛抱強くやっていけなければならない。


 それでもなお匠大塚は、良い品質のものを納得の価格で出し続ける仕組みを持っている。2017年12月に約1万7000アイテムの一斉値下げに踏み切ったのも、中間価格帯製品を価格訴求できるだけの体制が整ったからだ。


 何を申し上げたいかと言えば、匠大塚はニトリさんやイケアさんと競合する必要などないし、競合する余地もないマーケットに生きているということだ。ニトリさんなどが普及品中心のマーケットで頑張っていることと、私たちが扱う「もう少し手を伸ばせば手に入れられる品質の良い家具」は別物であり、私たちは、そのマーケットこそが新しい日本の家具需要を創造すると考えている。


 実はニトリ似鳥昭雄さんと私は、同年齢、同級生だ。そして2人とも家具業界の全盛期を知り、衰退する中でいかに存在感を維持するかに全力を注いできた。置かれた状況は同じでも、経営者として、事業の着目点は異なっている。


 私自身は、誰にも真似のできないビジネスモデルを創ってみたいと考えてきた。それがかつての大塚家具であり、今は匠大塚に凝縮されようとしている。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180115#1516013226