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藤原鎌足 - Wikipedia

正妻:鏡王女(? - 683年)(最初、中大兄皇子妃だった)

鏡王女 - Wikipedia

素性は謎に包まれており、額田王の姉という説があるが、『日本書紀』等には2人が姉妹だという記述はなく確証はない。しかし、額田王の父・鏡王との血縁関係はなかったとしても、同じ「鏡」という名が付いている事から、同じく鏡を作る氏族に養育された可能性はある。また、鏡王女には舒明天皇の皇女ないし皇孫だという説もある。


はじめ天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となる。鎌足の病気平癒を祈り天智天皇8年(669年)に山階寺(後の興福寺)を建立した。

道の駅竜王かがみの里(滋賀県竜王町):「義経元服の地」キャラクターの「近江うし丸」も誕生!

鏡神社:鏡の宿 義経元服ものがたり

平家の追っ手が探しているのを聞き、稚児(ちご)姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決心します。
そこで地元「鏡」の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子(えぼし)を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし元服をしたと伝えられています。
時に牛若丸は16歳、自らが鳥帽子親となって名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と名乗り、源氏の祖である新羅大明神(しらぎだいみょうじん)と同じ天日槍(あめのひぼこ)を祀る鏡神社へ参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願したのでした。(源氏は新羅系、平家は百済系と言われています)

烏帽子の右折れ左折れ ( 伝統芸能 ) - 京日記 花がたみ - Yahoo!ブログ

時は平家の全盛期、左折れであることは源氏を意味するご法度でもあった。

その経緯が能楽 『 烏帽子折 』 となっている。

しかし、烏帽子屋・五郎大夫が源氏方の出身で

その妻は、牛若の父・源義朝の家来、鎌田正清の妹であることを明かした。

鎌田政清 - Wikipedia

別名:正清

藤原秀郷流首藤氏の一族

源義朝の第一の郎党。

近江神宮 - Wikipedia

天智天皇 - Wikipedia

乙巳の変 - Wikipedia

大化の改新 - Wikipedia

中臣鎌足の出自

 代表的古代豪族の一つである中臣氏(なかとみうじ)は、高天原王朝系の天児屋(アメノコヤネ)の命を祖とする。これによれば天津神系と云うことになる。元々は「卜部(占部)姓」で途中から中臣姓になったのだとも云われている。天児屋(アメノコヤネ)の命は、記紀神話上、天の岩屋戸の前で祝詞を奏上する神 、また天孫降臨に際し、五伴緒(いつとものお)の一人として布刀玉命、天宇受売命らと天降ったと記されている神である。


 「中臣」とは、天津神と皇孫との間をとりもつ「仲執り持つ」神祇奉斎の一族とされた。中執臣とも云われた。神八井耳命(カンヤイミミノミコト)を祖とする多臣系中臣氏(神と人との中を取り持つ忌人として朝廷の祭祀の役職をなす)との説もある。

 古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。河内国一ノ宮と云われる枚岡神社こそ中臣氏の本拠地(東大阪市出雲井町)に創建された神社とも云われている。祭神は天児屋根と比売神の2神だったのが元の姿である。姓(かばね)は連(むらじ)。 

 伊勢神宮の祭主家・大宮司鹿島神宮宮司香取神宮宮司枚岡神社社家、気比神社宮司平野神社、梅宮神社、吉田神社宮司家、春日大社社家、松尾大社社家などが関係する。


 鎌倉時代に京都「吉田神社」の関係者であった「徒然草」の作者「兼好法師」もこの系譜の者である。

中臣神社(二之宮),Nakatomi-jinja Shrine,Kyotofukoh

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180304#1520159964(中臣神社)

連 - Wikipedia