義経元服の地鏡の里と平家終焉の地を訪ねて「源義経ロマンウォーク」:滋賀県竜王町観光協会
平家の終焉の地は壇ノ浦ではありません。
義経が元服した滋賀県竜王町の「鏡の宿」から、京の方へ少し通り過ぎた野洲市大篠原(おおしのはら)に、平家の総大将平宗盛(たいらのむねもり)清宗(きよむね)父子を処刑した地があります。
義経は元服後も「鏡の宿」に立ち寄っているのですが自ら元服した鏡の宿を血でけがすのを避けてわざと通り過ぎたと言われております。
宮山こと御幸山は、大正帝がおなりになった小高い丘があり、頂上からの景観は大変素晴らしいです。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180319#1521456009
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180305#1520246675
平家終焉の地「宗盛塚」「かわず鳴かずの池」:鏡の宿 義経元服ものがたり
1185年3月24日壇ノ浦合戦で敗れた平家一門はことごとく入水、戦死しました。
しかし一門のうち建礼門院(けんれいもんいん)、平宗盛(たいらのむねもり)父子、清盛の妻の兄平時忠(たいらのときただ)だけは捕らえられました。
生き残った徳子は平宗盛・平時忠らと京都に護送された。宗盛は斬首、時忠は配流となったが、徳子は罪に問われることはなく洛東の吉田の地に隠棲する。 5月1日には出家して、直如覚と名乗った。
7月9日、京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊した。吉田の坊も被害を受けたと思われ、9月になると徳子は「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり」(『古今集』読人知らず)の心境で比叡山の北西の麓、大原寂光院に入った(『平家物語』)。