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藤原不比等 - Wikipedia

藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公

藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが|藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。

前述のように不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇落胤であるとの説がある。

平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。

藤原(中臣)鎌足大化の改新以来、日本の外交責任者の地位にあり、当時外交使節として活躍していたのが僧侶と史(フミヒト:書記官)及び彼らが持っていた漢文や儒教・仏教の知識であった

11歳の時、父・鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は『日本書紀』の天武天皇2年(673年)5月条にある大舎人の登用制度によって出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。

不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。

不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。

父:藤原鎌足(ただし、一書に天智天皇の皇子と記される)。
母:車持与志古娘(車持国子の女。ただし、不比等の母は鏡王女とする説が有力)。

藤原不比等 国史大辞典|吉川弘文館|ジャパンナレッジ

近江国十二郡に封じられ、淡海公と称された。律令制の形成期にあって政務の運営を指導し、国家の基礎を固める上に大きく貢献するとともに、皇室との姻戚関係により、特権貴族としての藤原氏の地位を不抜のものとした。武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四人の男子はそれぞれ藤原南家・北家・式家・京家の祖となって政界に活躍し、女子も長屋王橘諸兄・大伴古慈斐など有力な皇族・貴族の室となった。平城京における不比等の居宅は宮城の東に隣接し、のち光明子に伝領され、法華寺となった。仏教の信仰厚く、父鎌足の開いた山階寺を飛鳥の厩坂から平城京に遷し、興福寺を建立、また同寺に維摩会を興した。

淡海公の追贈

【八幡神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet

彦根市佐和町慈眼院

◆淡海公=藤原不比等。本当にここまで覚えないといけないの?受験日本史で。 | 受験日本史。意外に知られていない合格の秘訣。

181藤原不比等とは何者か(3) : 地図を楽しむ・古代史の謎

淡海公に込められた意味=天智天皇の御落胤

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天智天皇ご事績・ご神徳|近江神宮

御祭神・天智天皇(御神名・天命開別大神)は第34代舒明天皇の皇子で、中大兄皇子と申し上げ、1370年の昔、皇太子として藤原鎌足とともに蘇我一族の専横を除去遊ばされ、大化改新(645年)を断行されました。古代社会の転換期に、大陸からの圧力により存亡の危機に直面していたわが国を、偉大なる英知と勇気とをもって雄大な建国の理想を実現せられ、国家確立の大本を打ち立てられ、中興の英主と称えられます。

 天智天皇の御事績は、明治維新に至る1200年の基礎となり、古く奈良時代から、御歴代の天皇陛下のなかでも別格の位置におかれ、特別な崇敬がありました。天智天皇の御陵は十陵の筆頭として、歴代朝廷から奉幣が行われ、平安時代を通じて、その忌日には一般の政務を停止し、諸大寺での法要に当ることになっていました。後世に至るまで歴代天皇のなかでも格別の位置に置かれていたことがうかがわれます。


 また歴代天皇の即位に当っての宣命には、かならず天智天皇のことに言及されるなど、皇室の歴史のなかでも特別崇敬の深い天皇であられました。

ことに困難を排して画期的な政策を推進し、日本の運命を導いてゆかれた御祭神の開運の神様としての御神徳、時の一瞬の判断が運命を左右することをつかさどり、開運への方向を説き示す、時の神様、導きの神様としての御神徳が高く、産業・文化・学芸の守護神として崇敬いただいています。

皇室と近江神宮|近江神宮

 天智天皇大津宮で画期的な新政治を推進して行かれた御事蹟、御遺徳について、昭和天皇はことのほか心中深く刻まれて、先の大戦の戦後復興を近江神宮の御祭神に御祈願なされ、その模範となさいました。
 昭和20年12月15日、神社と国家との関係を断ち切る神道指令が占領軍から発令された、まさにその当日、昭和天皇近江神宮を勅祭社に治定なさいました。そして翌21年2月より9年の長きに渡り、米軍軍政下にあった沖縄を除く全国46都道府県、約33000キロの道程を御巡行あそばされ、戦火に打ちひしがれた国民を慰め、国土復興の努力を激励して行かれました。


 終戦から1年あまり経た昭和21年11月9日午後8時、元滋賀県知事であり、近江神宮奉賛会副会長を務められ、また同年9月21日まで侍従次長であった稲田周一氏が、昭和天皇の御名代として近江神宮に参拝されました。
 当時の平田貫一宮司に対し「過日天皇陛下には総理以下重臣を召されて、異例のお言葉を賜った」と語り出し、「このたびの敗戦はまことに遺憾の極みであるが、1300年前の天智天皇の御時、唐・新羅の軍と白村江に戦って大敗した歴史がある。天智天皇は直ちに兵を撤せられ、国内諸政の一新を企てられ、文化を振興、国力の充実を図られた。これを模範として、諸政一新、文化経済を盛んにして永い将来に対処したいと強く念願しているから、一同もこの旨を体して大いに発奮努力して欲しい」との直話を賜り、近江神宮に参拝し神助を仰ぐよう、特命を頂いて参上したとのことでした。翌朝稲田氏は正式参拝し、昭和天皇の大御心をお伝え申し上げたのでした。

   天皇陛下御製
日の本の国の基を築かれしすめらみことの古思ふ


   皇后陛下御歌
学ぶみち都に鄙に開かれし帝にましぬ深くしのばゆ

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180303#1520073504
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171216#1513421128(小楠の「公論」思想は勝海舟坂本龍馬高杉晋作などに影響を与え、由利公正を通じて「五箇条の誓文」に結実する。だが「公共の天理」というその思想的コアは誰にも受け継がれなかった。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150108#1420713483(叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、舊來ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、?養豐カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ圖リ、新日本ヲ建設スベシ。)

白村江の戦い - Wikipedia

天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。

この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。

百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。


中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。

唐側の勝利に終わった白村江の戦いは、中国史上屈指の大国として歴史に名を残した統一王朝である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わるプロセスの中で起きた戦役であるといえる。

白村江の戦いでの敗北は、元寇と、アメリカ合衆国による占領を招いた第二次世界大戦と並び、日本列島が海外勢力の占領下に入る危険性が非常に高まった戦争であった。この敗戦により倭国は日本列島の領土は奪われなかったものの、朝鮮半島の領地・権益を失い、外交政策・国防体制・政治体制など統治システムの基礎部分を根本的に変革する必要に迫られた。下記に示すとおり、唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整備・改革され、天智天皇の時代には近江令法令群、天武天皇の代には最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急いで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。

天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣した。

白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移し、ここに防衛体制は完成を見た。

671年に天智天皇が急死すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子弘文天皇)と弟の大海人皇子皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳〜686年)として即位した。


皇位に就いた天武天皇専制的な統治体制を備えた新たな国家の建設に努めた。遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。


天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。

日本が大敗した白村江の戦いをわかりすく【天智天皇と斉明天皇】

白村江での敗北は、第2次世界大戦に次ぐ日本史上最大レベルの国家の危機をもたらしました。

第2次世界大戦での敗戦は日本に尋常でない影響を与えました。そして、日本の古代史においてもこれに匹敵するような大きな戦いがあったというのが白村江の戦いです。

中大兄皇子と中臣鎌足は大化の改新で何をした?【改新の詔】2/2

反発が強かったのは、八百万の神を信仰する日本の国民性も影響しています。地域ごと地域ごとに神様がいるため、住む土地の神を信仰する人々にとって外部の人間がいきなり入り込み、無礼な振る舞いをすることは許されないことだったのです。


もちろん、豪族に任せっきりでは統治はできません。そこで屯倉を置くことにしました。地方の統治自体は、負かした豪族を国造とすることで行い、その監視を屯倉で行います。

これらの問題を解決するため、乙巳の変の後、天皇になった孝徳天皇中大兄皇子らは、国造や伴造を廃止することにしました。


その代わり、今まで国造らが統治していた地域を強い豪族勢力が形成されにくいよう分割・再編し新しい組織を作りました。

天智天皇 - Wikipedia

漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。

森鴎外「帝諡考」による説

淡海三船 - Wikipedia

大友皇子の曽孫

天智天皇は渡来人との説もあり、その名の由来も中国史上最悪の殷の紂王... - Yahoo!知恵袋

中大兄さまはいまどこに〜山科御陵〜

御廟野古墳 - Wikipedia

宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇の陵に治定されている。

壬申の乱 - Wikipedia

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。


また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。

天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。

天武天皇 - Wikipedia

漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代淡海三船によって撰進された。近代に森鴎外は『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢武帝になぞらえたものとする説、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。

天武天皇は日本史上にまれな権力集中をなしとげた。

天武天皇は、豪族・寺社の土地と人民に対する私的支配を否定した上で、諸豪族を官人秩序に組み込み、国家の支配を貫徹しようとする政策をとった。

豪族の私的支配の否定は、天皇を頂点とする国家の支配を貫徹しようとするものではあったが、生まれの貴賤による差別を否定したり、平等な能力主義にもとづく官僚制を志向するものではなかった。

天武朝の朝廷は低姿勢をとる新羅と使者をやりとりし、文化を摂取する一方で、唐には使者を遣わさず、大国としての体面を繕った。

天皇は、10年(681年)3月17日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した。後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われる。また、稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞帝紀旧辞)を詠み習わせた。後に筆録されて『古事記』となる。いずれも完成は天皇の没後になったが、これらが日本に現存する最古の史書である。二書を並行させた意図には定説がないが、内容は天皇家の支配を正当化する点で共通する。長大な漢文で、一貫性を犠牲にして多数の説を併記した『日本書紀』が合議・分担で編纂されたのに対し、短く首尾一貫した『古事記』のほうに天武個人の意志がかなり入った可能性が指摘される。

天武天皇は日本古来の神の祭りを重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げた。神道の振興は、外来文化の浸透に対抗する日本の民族意識を高揚させるためであったと説かれる。だがその努力は各地の伝統的な祭祀をそのまま保存することではなく、天照大神を祖とする天皇家との関係に各地の神を位置づけ、体系化して取り込むことにあり、究極的には天皇権力の強化に向けられていた。それぞれの地元で祀られていた各地の神社・祭祀は保護と引き換えに国家の管理に服し、古代の国家神道が形成された。


その際、天武天皇伊勢神宮を特別に重視し、この神社が日本の最高の神社とされる道筋をつけた。

天皇の宗教観には道教の要素が色濃く出ている。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神、つまり仙人の上位にいる存在であったとの説がある。八色の姓の最上位は真人であり、天皇自身の和風諡号は天渟中原瀛真人という。

むらさきの にほへる妹を 憎くあらば
 人妻ゆゑに吾恋ひめやも(『万葉集』巻一、21)


天智天皇7年、天智天皇が蒲生野に遊猟に出かけたときに、額田王が皇太子、すなわち大海人皇子に「野守は見ずや 君が袖振る」と歌ったのに答えた。額田王ははじめ大海人皇子に嫁し、後に天智天皇の妻となった。

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天智天皇・大津京年譜|近江神宮

天智天皇への敬仰史|近江神宮

日吉大社の西本宮は、天智天皇の時代に国家鎮護の意味で大和の大神神社から勧請された御社です。

ご祭神 | 大神神社(おおみわじんじゃ)

三輪山 | 大神神社(おおみわじんじゃ)

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