教科書は最初から最後までくまなく学ぶ必要はない。教科書を書く立場はもれなく書く必要に迫られて書いているが、調べて書いていることもある。どこが大事かは講読に挑戦するとおのずと見えてくる。大事なことは何度も調べることになるから。
— 山下太郎 (@taroyam) 2018年3月24日
ソッツィーニ主義のマニフェストである『ラクフ教理問答』(1605)によると、キリスト教の教えは聖書だけから来る。よって伝承は不要である。伝承の重視は危険ですらある。聖書の雑な解釈や、バイアスのかかった読みを誘発し、立場の分裂を招くから。
— Kuni Sakamoto (@kunisakamoto) 2018年3月24日
むしろ聖書を、他の文書と同じように読まねばならない。聖書のことは聖書に聞く。理性に反する結論は出さない。こう読めば解釈は定まり、争いは回避できる。その解釈によると、聖書にとって根本的に重要な教えは、救済に必要な少数のものだけになる。
— Kuni Sakamoto (@kunisakamoto) 2018年3月24日
聖書を他の文書とおなじように読む、教えの数を救済を中心に極小化する、それを通じてキリスト教会での争いを回避しようとする。どこかで見たことがある立論である。とにかく、ここをおさえないと17世紀の神学・政治論をうまく歴史的に位置づけられないのではないか。
— Kuni Sakamoto (@kunisakamoto) 2018年3月24日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180324#1521888458
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