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人権はなぜ保障されるべきなのか、その限界はどこにあるのか。人類の歴史を振り返り各国の制度を比較しつつ、また社会哲学や倫理学とも対話しつつ、よりよい人権の実現のための方策を検討する、それが人権論の課題である。
 このように書くと、いかにも理想を追求して社会の不正を糾弾する、人権感覚あふれた立派な人間をイメージされるかもしれないが、私を含めて憲法研究者の多くはそうではない。そもそも人権侵害の現場に立ち会うことが少ないし、人権侵害を訴える当事者に対しても、その寄り添い方には濃淡こそあるものの、一定の距離を保って第三者的な助言をするにとどまるのが通常である。
 なぜそういう姿勢になるのか。憲法研究者のほとんどは、大学の法学部か法科大学院のスタッフである。憲法学を含む法学は社会の多様な紛争を扱う。そして「盗人にも三分の理 」というように、一方の主張が全面的に正しく、他方の主張が全面的に誤っているということはまれである。そうした状況に慣れているので、法学研究者は、絶対に譲ってはならない権利や利益があるという一線は意識しつつも、その線は相対的に狭く引いた上で、むしろそれぞれが主張する権利や利益をどのようにバランスさせるかに、意を用いることが多い。
 これは、憲法研究者がほかならぬ基本的人権を扱うときも同じである。人権を侵害しているのではないかと疑われる―少なくとも当事者の主観からはそう見える― 法律や行政の措置は、数限りなくある。そこに真に許されない人権侵害があるのか、それとも公平な社会を維持し実現するために必要な制限であるのかを判断する際には、その判断を下す人の価値観がどうしても入り込んでくる。
 こうした状況で学問としての客観性を保とうとすれば、この問題について国会が多数決でどのような判断をしたのか、その法律の下で行政がどのように判断したのか、そしてそれを裁判所がどのように判断したのかを一応の前提としてそれをさらに検討するという、一段も二段も腰の引けた姿勢にならざるを得ない。
 もちろん法律、行政、司法にただ追随するわけではなく、それらと自分の研究者としての知見、あるいは一人の人間としての価値観や良心とつきあわせて、批判すべき点は批判することになる。しかしそうであっても、実務からまったく無縁に、あたかも無垢のキャンバスに絵を描くように、ただあるべき人権を説き現実を否定するならば、それがどれほど魅力的で美しいものであっても、一定の客観性をもって他人を説得することはできない。
 いま憲法学、あるいは法学のあり方として描いた状況は、私の理解が正しいならば、社会科学一般の宿命でもある。それは研究の対象とする現実から、究極的には実務という形で現れる「社会の通念」から、逃れられない。だからこそ研究者は、現実をただ否定してはならない反面で、自らの知見がただ社会通念によって支配されたものではないかを絶えず反省しなければならない。その上で、自らの研究によって現実や社会通念に自覚的に働きかけなければならない――いまのところ、私はこのように考えている。

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