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日本遺産認定「日本国創成のとき〜飛鳥を翔た女性たち〜」公式サイトオープン | あすかであそぼ | あすかであそぼ

 平成27年4月24日、日本が国家として歩み始めた飛鳥時代と、その黎明期を牽引した女性たちのストーリーが、「日本遺産」として認定されました。
 飛鳥時代天皇の半数は女帝であり、彼女たちの手によって、新たな都の造営、外交、大宝律令を始めとする法制度の整備が実現されました。また、文化面では、女性歌人が感性豊かな和歌を高らかに詠い上げ、宗教面では尼僧が仏教の教えを広め、発展させるなど、政治・文化・宗教の各方面で女性が我が国の新しい“かたち”を産み出し、成熟させていきました。

日本国創成のとき〜飛鳥を翔た女性たち〜 | 飛鳥女史紀行


【日本国創成のとき〜飛鳥を翔た女性たち】推古女帝編

推古天皇 - Wikipedia

最初の女帝(女性天皇

第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣・蘇我稲目の女・堅塩媛。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。

用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月乙巳朔癸丑(4月9日)(587年5月21日)に崩御した後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで皇太后(額田部皇女)が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。しかし、5年後の祟峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(592年12月12日)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月壬申朔己卯(旧暦12月8日)に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。


その背景には皇太后が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と皇太后がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく薨去した)。

推古天皇元年4月10日(593年5月15日)、甥の厩戸皇子聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。厩戸の父は用明天皇推古天皇の同母兄)、母も異母妹の穴穂部間人皇女(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、これが竹田皇子亡き後において、天皇が厩戸を起用する背景になったと見られている。


推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力の均衡を保ち、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩したことがなかった。ずっと後のことではあるが、推古天皇32年(624年)、馬子が倭の六県の一つである葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したという。

このように公正な女帝の治世のもと聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(推古天皇11年(603年))・十七条憲法(同12年(604年))を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣した。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていたが、初めて日本の独立を強調する目的で使節が派遣された。翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇2年(594年)に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩法隆寺を建立させたりした。


【日本国創成のとき〜飛鳥を翔た女性たち】斉明女帝編

斉明天皇 - Wikipedia

推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。

はじめ高向王(用明天皇の孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んだ。なお、この2人の詳細は不明。


後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。

舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇元年(642年)1月15日、 皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。

皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・50歳)には、更に飛鳥板蓋宮に遷幸。11月1日(12月16日)、蘇我入鹿山背大兄王を攻め、11月11日に王は自害。

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った。日本史上初の譲位とされる。

孝徳天皇崩御後、斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に就いた(史上初の重祚)。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。

北方の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送り蝦夷地を平定した。さらに当時北海道の北海岸や樺太に存在した粛慎まで出兵し勝利したと伝える。

在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、日本軍は朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを戦ったが、唐と新羅の連合軍に敗北した。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180318#1521369533
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180307#1520419447


【日本国創成のとき〜飛鳥を翔た女性たち】持統女帝編

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180413#1523616231
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180311#1520766256