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 余談だが、第3軍の作戦指導に批判的で、のちの歴史研究者らに影響を与えた戦前の陸大テキスト「機密日露戦史」(※1)は、長岡の回顧録など乃木と対立した軍関係者の証言に依拠するところが多い。戦後に乃木を凡将とする評価が広まり、現在も根強いのは、このテキストが一因だろう。


 一方、海外の識者らは、近代的な永久要塞を攻略した乃木の力量を高く評価した。


 ロシア革命の指導者レーニンも、乃木の戦術に多くを学んだ一人だ。乃木が第1回総攻撃後に戦術転換したことを絶賛し、革命後の政策転換も乃木に見習えと檄を飛ばした。


 「もし戦術に誤りがあるとすれば、その誤りを取りのぞかなければならない。(中略)われわれの知っているように、(乃木が第1回総攻撃後にとった)新しい作戦は、予想以上にはるかに長い期間を要しはしたが、完全な勝利におわったのである」(1921年の第7回モスクワ県党会議におけるレーニン演説)

 要塞陥落の5日後、乃木は敵将ステッセルと旅順北西で会見した。戦前の教科書に登場し、唱歌にまでなった「水師営の会見」である。


 これに先立ち、参謀総長山県有朋は乃木に打電し、「陛下(明治天皇)には将官ステッセルが祖国の為め尽くせし苦節を嘉(よ)みし玉(たま)ひ、武士の名譽を保たしむべきことを望ませらる」と伝えた。


 乃木は、この聖旨を忠実に履行する。勝者である軍司令官としてではなく一個人として会見にのぞみ、ステッセルと随員に勲章の佩用(はいよう)と帯刀を許した。


 通訳を務めた第3軍参謀の津野田是重によれば、「双方隔意なき態度を以て雑談」し、こんなやり取りを交したという。


 ステッセル「閣下は当方面の戦場において、最愛の二子を喪われたとのことですが、まことに御同情に堪えません」


 乃木「私は二子が武門の家に生まれ、軍人としてともに死所をえたことをよろこびます。彼らも満足して瞑目(めいもく)していることでしょう」


 ステッセル「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして、かえって満足しておられる。私などの遠く及ぶところではありません」


 乃木「ところで貴軍の戦死者の墓が散在しているようですが、できることなら1カ所に集め、墓標を立てて氏名などを記しておきましょうか」


 ステッセル「閣下は戦死者のことまで情けをかけてくれるのですか、お礼のことばもありません」

(※1)機密日露戦史は、陸軍中将の谷寿夫(ひさお)が陸軍大学の教官時代、兵学講義の教科書として著作したテキスト。公刊戦史にない史料や、日露戦争従軍者らの証言も含まれ、戦史研究における資料的価値は高い。戦前は一般に公開されなかったが、戦後にその存在が明らかになると、歴史研究者や小説家らが参考にするようになった。昭和43〜47年に産経新聞夕刊で連載された司馬遼太郎の「坂の上の雲」も、機密日露戦史を参考にしている。ただ、著者の谷は第3軍司令部の一次史料(参謀日記など)をほとんど利用せず、多くを第3軍に批判的な軍関係者の回顧談などに依拠していた。このため幾つか事実誤認があり、日露戦争で第4軍参謀長を務めた上原勇作(のち元帥陸軍大将)も「客観性に欠ける」などと批判していた。


 なお、谷は陸軍士官学校15期卒で、二○三高地で戦死した乃木の次男、保典と同期である。陸大教官後は国際連盟陸海空軍問題常設委員や近衛歩兵第2旅団長などを歴任。昭和10年に第6師団長となり、南京攻略戦などに参戦した。しかし戦後は「南京事件」の責任者の一人としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に逮捕され、中国の南京軍事法廷に移送。その後の戦犯裁判で谷は、「第6師団は軍機厳正であり、事件の証拠はすべて偽造である」などと主張したものの死刑判決が下され、22年4月26日、銃殺刑に処された。“勝者の裁き”による不当判決だが、谷は少しも取り乱さず、従容たる最期だったという。

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