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「ヨーロッパ・ピクニック計画」は1989年の8月19日、当時、東側だったハンガリーオーストリアとの国境付近で集会が行われるさなかに国境のゲートが一時開かれ、集まっていた旧東ドイツの人たち600人以上が西側に脱出した出来事で、ベルリンの壁の崩壊につながる歴史の転換点として知られています。

計画の決行から30年を迎えた19日、舞台となったハンガリー西部のショプロンでハンガリーのオルバン首相やドイツのメルケル首相が出席した式典が開かれました。

このうち、旧東ドイツ出身のメルケル首相は「私たちドイツ人は、ヨーロッパの分断を克服するためにハンガリーが協力してくれたことに感謝している」と述べました。

一方、国境近くにある資料館にはピクニック計画に参加して西側へ脱出した旧東ドイツ出身の男性が家族とともに訪れていました。

当時2歳の次女らとともにショプロンから西側へ脱出した旧東ドイツ出身のワルター・ソーベルさんは当時の映像を見つめながら、「とても感情的になり、当時を思い出して涙が止まりませんでした。脱出は危険な賭けでしたが、ほかに手段はありませんでした。あれから30年たち、この場にいられたことに感謝しています」と話していました。

また、近くに住むハンガリーの女性は「冷戦時代のハンガリーは、まるで監獄に閉じ込められたような状況で、移動の制限もされていました。今はとても幸せです」と話していました。

一方、ハンガリーに住む17歳の女性は「関心があったので、母と訪れました。ハンガリーで、このようなことが起こったのを誇りに思います」と話す一方で、現在のオルバン政権が、国境にフェンスを設置するなどシリアなどから押し寄せた移民や難民への対策を強化していることに対して、「われわれはこうした人たちを助けるべきであって、壁を築くべきではない」と話していました。

「ヨーロッパ・ピクニック計画」は冷戦末期のハンガリー民主化を求める人たちや当時の政権の中枢がひそかに考え出した旧東ドイツの人たちを西側へ脱出させる計画です。

冷戦末期、ソ連ゴルバチョフ書記長が政治改革・ペレストロイカを進める中、社会主義国だったハンガリーでは改革派のネーメト首相のもと、東側諸国の中では、早い時期から民主化が進められ、1989年5月には、オーストリアとの国境沿いにあった鉄条網の撤去が始まりました。

こうした中「ピクニック計画」が進められ、1989年8月19日に決行されました。

舞台はハンガリー西部の夏のリゾート地ショプロンの国境近くで、参加者がピクニックを開き将来のヨーロッパ統合について語り合うというものでした。

そのピクニックが行われているさなかの8月19日午後3時、会場近くの国境のゲートが一時的に開放され、ひそかに計画を知った旧東ドイツの人たち600人以上が一気にオーストリア側へ脱出。

ハンガリー国境警備隊は事情を知りませんでしたが、発砲することなく脱出を黙認しました。

この出来事をきっかけにハンガリー政府は翌月の9月11日、国境を公式に開放し、ヨーロッパを東西に分断していた「鉄のカーテン」が事実上消滅し、それから2か月余り後の1989年11月9日、東西分断の象徴だった「ベルリンの壁」が崩壊しました。

ヨーロッパ・ピクニック計画は冷戦の終結やその後のヨーロッパ統合への流れに影響を与えた歴史的な出来事だと評価されています。