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御璽がいかに重要なものであるかは、現在の天皇即位の礼を通して、改めて認識されるようになったのではないか。

現在の天皇は2019年5月1日に即位したわけだが、その日、「剣璽等承継の儀」と「即位後朝見の儀」が執り行われた、御璽が登場したのは、前者の方である。

剣璽等承継の儀とは、天皇皇位を継承した証として、剣璽・御璽・国璽を承継する儀式のことである。

剣璽とは、歴代の天皇に伝えられてきた「三種の神器」である宝剣と神璽(玉)のことである。国璽には「大日本國璽」と刻まれており、外交文書や勲記に押印される。勲記とは、受勲者に勲章とともに与えられる詔書のことである。

御璽の歴史は、相当に古い。それは、飛鳥時代の701年に制定された大宝律令に規定され、「天皇御璽」と刻印されていたものと考えられる。曖昧なところがあるのは、大宝律令は途中で散逸し、残されていないからである。

古代から、どの文明においても印章は権力の象徴であった。発掘の結果、紀元前5000年ごろのメソポタミアで粘土板などに押すスタンプ型の印章が用いられていたことが明らかになっている。

日本の印章は、中国からの影響で生まれたものである。それも、そこには漢字が刻まれ、漢字文化圏ならではのものだからである。印章が押される紙というものが中国で発明されたことも、そこには大きく影響している。

日本最古の印章とされるのが、1784年に九州福岡の志賀島で出土した「金印」である。これは、西暦57年ごろに中国から送られたもので、そこには「漢委奴国王印」と刻まれている。

書というものも、漢字文化が生んだ東アジアに特有のものということになるが、書の世界で「書聖」と呼ばれるのが、中国の王羲之である。残念ながら、王羲之の書を愛した唐の大宗が、自らの陵墓に副葬させたことなどもあり、真筆は残されていないのだが、精密な模写は伝えられている。

そうした模写には、それを所有したり、鑑賞した皇帝や文人が、その証として押印するということが行われている。より多くの印が押されたものの方が名品だともされている。

このような印章の文化があるからこそ、これまでハンコの全面的な廃止には至らなかったことになる。押印された文書の方が、されていない文書に比べて、正式で権威がある。多くの人がそのように感じてきたからこそ、ハンコは今日にまで生き延びてきたのだ。

そこが、ハンコとともに、デジタル化のなかで不要とされているファックスとは違う。ファックスが一般の家庭にまで浸透するようになるのは1980年代から90年代にかけてのことだと思うが、印章に比べればその歴史ははるかに浅い。

ただ、原稿の送受信にファックスを大いに活用してきた私のような人間には、いくら時代遅れとは言え、ファックスを目の敵にする風潮はいかがなものかと感じてしまう。

話を御璽に戻せば、それは純金製で縦横がそれぞれ9.0センチあり、重さは3.55キロにも達する。両手でないと持ち上げられない重さである。

したがって、御璽を押すのは天皇ではなく、宮内庁の職員である。しかも、曲がって押してしまい、失敗したら大変なので、担当の職員は、前日には酒も控え、早寝して体調を整えたりするという。

また、天皇がさまざまな行事に出席するため、泊まりがけで地方を訪問した際には、閣議が終わると、内閣官房の職員が、文書を天皇のいる現地まで運び、そこで決済してもらうという(この点については、山本雅人『天皇陛下の全仕事』講談社現代新書を参照)。

ハンコのためだけに出張する。これこそ、行政の無駄である。そうした意見が出てきてもおかしくはない。河野大臣は、果たしてこのことをどのように考えているのだろうか。

今のところ、このことを問題視している人もいないので、御璽を廃止せよという声は上がっていない。

だが、行政の無駄を廃するということを徹底するのであれば、御璽にまで話が及んでも不思議ではない。

天皇は、地方の訪問先で、文書の決済を電子的に行う。そうしたことが実現されてこそ、ハンコは行政の世界から一掃され、一般の社会でも、ハンコは不要なものとされることだろう。

日本の社会は、果たしてそこまで踏み込んでいくのだろうか。ハンコの廃止が日本のデジタル化ということと密接不可分の関係にあるというなら、その点は是非とも検討する必要があるだろう。

御璽や国璽は例外だとするなら、政府はその根拠を示さなければならない。

例外とされるものが生まれれば、それは次第に拡大されていくのが世の常である。ハンコについては業界もあるわけだから、巻き返しをはかるために、こうしたことを持ち出してくることになるかもしれない。

私は一時、東京大学先端科学技術センターの御厨貴研究室で特任研究員を勤めていたことがあり、御厨氏が紫綬褒章を受賞されたときには、お祝いの会に出席した。

そのとき、会場には、褒賞とともに証書が掲げられていたが、証書の真ん中には大きな国璽が押されていた。いかに国璽が重視されているのかは、このことからも分かる。

もしそこに国璽が押されていなかったらどうだろうか。証書には、首相と内閣府賞勲局長が署名し、それぞれの職印も押されている。当然、これもなくなるはずである。

ハンコが多く押される文書の代表としては、役所や企業の「稟議書」がある。この稟議書のあり方も、今回の動きのなかで改革の対象になっている。

私は昔、山田雄一『稟議と根回し』(講談社現代新書)という本を読んだことがあった。なかなかの名著だと思ったのだが、何分、1985年に出たものなので大分前に絶版になってしまった。

この本を通して私が学んだのは、稟議というものが、組織を動かし、意思決定を行う上でいかに重要かということである。ハンコは決して無意味なものではなく、組織のなかで合意形勢を行うために必要不可欠な道具だったのである。

デジタルの世界に詳しい、東洋大学情報連携学部長の坂村健氏は、産経新聞のコラム(2020年10月2日付)で、ファックスからメールへのデジタル化の改善ではまったく不十分で、「デジタルに合わせて部署を統廃合しシステムを統合する」必要があると主張している。そのためには、抵抗勢力を抑える必要があり、その司令塔の役割が、新設のデジタル庁に求められるというのだ。

この見解に示されているように、ハンコを廃止すれば、それで済むことではない。そこには、組織の根本的な改革が必要である。さらには、歴史の古い日本の文化をいかに守り、変えていくのかが問われている。

ハンコ廃止は相当に進むかもしれないが、どこかで壁にぶちあたることが予想される。それだけ、ハンコには深いものがある。

その壁を乗り越えたいというのであれば、最初に、御璽・国璽をどうするのかを考えるべきなのではないだろうか。

ハンコの帝国には、御璽が君臨しているのである。

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