立憲政治の本旨は最大多数の最大幸福を期するにあるに関わらず、我が憲政の実際は常に最大多数の幸福を犠牲として、一部少数階級の利権を擁護する嫌いがある。『政治読本』
— 尾崎行雄bot (@Ozaki_Yukio) November 4, 2020
美濃部達吉の手紙見つかる 「天皇機関説問題」で迫害 愛媛 #nhk_news https://t.co/bMMpbPd3BD
— NHKニュース (@nhk_news) 2020年11月4日
戦前のいわゆる「天皇機関説問題」で迫害を受けた憲法学者の美濃部達吉の手紙が愛媛県内で保管されていたことが分かりました。手紙はみずからの学説について「迫害を受けることは心外だ」と記され、専門家は当時の美濃部の心境を伝える貴重な資料だとしています。
これは戦前、愛媛県の新聞記者だった曽我鍛に宛てたもので、孫の健さんが自宅で保管していました。
手紙は、美濃部達吉が「天皇機関説問題」で貴族院議員を辞職した翌月の昭和10年10月の日付で、議員辞職について「腰くだけのやむなき事情でざんきの至り」と記し、恥ずかしいことだとしています。
美濃部がとなえた天皇機関説は「天皇は国家の最高機関として憲法に従って統治権を行使する」という明治憲法の学説で、後に陸軍や議会の一部などから激しい批判を受けます。
これについて、手紙には「学問の身内の権力や暴力のために迫害を受けることはいかにも心外だ。今後も言論の自由の許す限り、命ある間、学問に尽くしたい」などと記しています。
しかし、この問題で美濃部の著作は発禁処分となり、翌年には自宅で銃撃され重傷を負うなど思いとは逆に迫害は強まります。
美濃部の出身地兵庫県にある「美濃部研究会」の宮先一勝会長は「当時の心境を伝え、権力の乱用に対する抵抗の精神がうかがえる貴重な資料だ」と話しています。
手紙が書かれた当時、貴族院議員を辞職した美濃部には激しい抗議の声が浴びせられていて、手紙の文面はその中で届いた曽我の励ましに感謝し、辞職についての思いを次のように記しています。
「先般はご懇篤(こんとく)の御手紙相載(あいいただ)き御厚情感銘の至り」。
「新聞にて御承知の通 結局は終に腰挫(こしくじ)けの己むなき事情に立ち至り慚愧の至に候」。
そして、みずからへの弾圧については、次のように述べています。
「学問の身内の権力や暴力の為に迫害を受けるは何にも心外」
「今後も言論の自由の許す限りに於ては命ある間は学問の為に尽し度く、存じおり候」などと記しています。
美濃部達吉は明治35年に東京帝国大学の教授となり、「天皇は国家の最高機関として、憲法に従って統治権を行使する」と説明するいわゆる天皇機関説をとなえます。
この学説は広く認められていましたが、昭和10年2月、美濃部が議員となっていた貴族院の本会議で「反国体的」と非難され、陸軍や議会の一部、それに当時の右翼などから排撃運動を受けます。
さらに著作が「不敬罪」に当たるとして検察に告発され、美濃部は、議員辞職に追い込まれたうえ、著作は発禁処分を受けます。
この問題で当時の政府は「天皇機関説は取り除かなければならない」という声明を出し、国家が学問の内容に介入することになります。
翌年の2月には美濃部は自宅で銃撃され重傷を負います。
同じ2月の26日には陸軍の青年将校らがクーデターを企て政府要人らを殺害した「二・二六事件」が起きます。
「美濃部研究会」の宮先一勝会長は「二・二六事件から日本は戦争に向かっていくが、学問を弾圧する天皇機関説の問題をきっかけにして戦争への道が始まったと言える」としています。
約10年の弁護士人生を支えてくれた。もしかしたらこれで食べおさめか。麻婆豆腐は辛めだが、この中華弁当を毎回頼み続けたな... pic.twitter.com/MEYvb8kpeG
— anonymity (@babel0101) 2020年11月4日
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