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眞子さまと小室さんの年内結婚がまるで既定路線のように報道されていますが、公式な発表がない以上、ひっくり返る可能性が0%になったわけではありません。小室さんの母親と元婚約者間の金銭問題が解決したわけでもないですし、秋篠宮さまが以前から繰り返しおっしゃっていた『多くの人が納得し喜んでくれる状況』になったわけでもありません。9月11日に発表された紀子さまのお誕生日の声明文にも、そう読み取れるメッセージが隠されていました」

眞子さまと小室さんの結婚は、まだ本決まりではないと私は考えます。その根拠は、9月11日のお誕生日に紀子さまの発表した文書回答の内容が、あまりにも"冷淡”だったことです。昨年のお誕生日の文書からほとんど言葉を変更していないことも気になります」

1年前、紀子さまは自身のお誕生日に寄せて「長女の気持ちをできる限り尊重したいと思っております。現状や見通しを含め、話したことの内容をお伝えすることは控えさせていただきます」と回答されていた。

 この回答を巡って、ある「論争」が起きていた。前出・宮内庁担当記者が解説する。

「“できる限り尊重したい”という表現の意味をどう理解するかで割れていたんです。事実上の結婚容認と推測する人がいた一方で、“尊重できないこともある”という意味で結婚に反対という人も多くいました。

「昨年の9月から大きく状況が変わっているにもかかわらず、あえて昨年と同じ回答であることに大きな意味が込められていると感じます。公式発表がなされていないとはいえ、本当に眞子さまの結婚が決まっているとしたら、娘を送り出す母親の心情としてはあまりに素っ気ない。黒田清子さんのご結婚が直前に迫った2005年10月に、美智子上皇后陛下が発表した文書と比べると温度差は明白です」(同前)

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#天皇家

外国との通商に反対する孝明天皇の意向を無視して、幕府にすり寄っていく関白の九条尚忠。九条関白からすれば、老中首座の堀田正睦をはじめ幕府側から説得された結果、国際情勢も踏まえて、現実的な判断を下したにすぎないが、強引さは否めなかった。

一部の公家から幕府寄りの姿勢を批判する声が上がると、左大臣近衛忠煕への手紙でこんな気持ちを吐露している。

「この頃の堂上向き人気立ち、種々心のまま申し出られ、甚だもって心痛」

「堂上」とは「堂上家」、つまり朝廷の殿舎に上ることを許された家柄のことで、「人気立つ」とは群集が興奮しているさまを指す。「公家たちが勝手なことを言って盛り上がり、困ったものだ」と愚痴をこぼしたのだ。

だが、不満を嗅ぎ取っていた九条関白も、88人もの公家たちが突如、自分の邸宅に押しかけてくるとは、夢にも思わなかったに違いない。想定外の行動に出るのが、岩倉具視という常識知らずの公家だった。

公家たちは、岩倉が計画を持ちかけた当初こそ、腰が引けた雰囲気が漂ったものの、いったん行動に移してしまえば、公家らしからぬ粗暴さも見せる。九条邸に押しかけた公家の中には「国賊!」「撃ち殺せ!」と暴言を吐く者までいた。

岩倉の扇動がそれほど巧みだったのだろう。岩倉は、のちに第14代将軍の徳川家茂が死去したときも、王政復古の実現にあたって、公家有志を扇動し、朝廷改革を主導することになる。

九条関白への抵抗運動について、岩倉は「関白に逆らう」という大きなリスクをとって、大胆な行動に出たように思われがちである。

だが、はたしてそうだろうか。冷静に考えれば、孝明天皇の意をないがしろにし、幕府を重視した九条関白のほうが、よほどリスキーで、常識知らずともいえるだろう。

本来、力を持つべきものが実権を持っていない。時に、政治権力というものは、そうした「ねじれ」を生み出すものだ。岩倉はうまくそこを突いたのであって、向こう見ずな行動をとったわけでは決してなかった。

現に、岩倉が主導した「廷臣八十八卿列参事件」は、朝廷の秩序を乱す大規模な運動だったにもかかわらず、おとがめなしとなっている。孝明天皇は「無理からず趣意」と理解を示して、勅答を変更するように指示。朝廷は、外国との通商を拒否する姿勢を貫くこととなった。いわば、岩倉が孝明天皇の「開国拒否」を後押ししたといってよいだろう。

孝明天皇の外国との通商拒否によって、老中首座の堀田は失脚する。代わって、大老井伊直弼が権勢をふるい、条約調印を断行。それに激怒した孝明天皇が暴走して水戸藩に密勅を下すと(戊午の密勅)、大老就任直後に顔を潰された井伊は、大弾圧「安政の大獄」に踏み切ることとなる(『大誤解「安政の大獄は井伊直弼の暴走」でない根拠』参照)。

時局の混乱に乗じて存在感を示した岩倉だったが、朝廷と幕府が対立を深めることは、本意ではなかった。諸外国から開国を迫られている今、国内で分裂している場合ではない。

孝明天皇とて、幕府から実権を奪いたいわけではなく、あくまでも鎖国体制を維持することを望んだにすぎない。だが、幕府からすれば、開国は避けられないという現状に直面しており、孝明天皇のいう攘夷などできるわけがないと考えていた。

孝明天皇の強情と井伊の強権により、朝廷と幕府の関係には緊張が走るばかりだった。