https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

紀子さまは最近、心ここにあらず、ということも増えたそうです。職員に“換気のために窓を開けて”とおっしゃったかと思えば、“いつまで開けているの”と叱責されることも。そうした細かいご指示が以前にもまして増えるなど、邸内はピリピリとした雰囲気のようです」(宮内庁関係者)

 秋篠宮ご夫妻は7月6日、東京五輪の日本代表選手団の結団式をオンラインで視聴された。公開されたご夫妻のお姿は「紀子さまがおやつれになったのでは」(皇室記者)という声が上がるほどだった。

 そんな中で、紀子さまにとって新たな“ご心労の種”が生まれている。眞子さまの婚約内定者である小室圭さんの母・佳代さんの「告白」が、6月下旬、『週刊文春WOMAN』に掲載されたのだ。

《十七年十二月に『週刊女性』の記事が出た直後に宮邸にご説明にあがりました》(以下、《》内は同引用)

 佳代さんは記者の雑談に応じる形で、そう答えた。「記事」とは、佳代さんと元婚約者Aさんとの間の金銭トラブルについてのものだ。

紀子さまは、まさか『秋篠宮邸での密談』が、本人の口から暴露されるとは思っていなかったに違いありません」と話すのは、別の宮内庁関係者だ。

「たしかに、結婚が延期になった頃、ご夫妻が小室さん親子を秋篠宮邸に呼ばれ、説明を求めたことがあったといわれてきました。しかし、周囲が推測して話すのと、本人が事実として話すのとでは、まったく違う次元の話です。

 本来、そうした皇族方とのプライベートのやり取りは、皇族ご本人の許可なしに語られていいものではありません。眞子さまが結婚されたあかつきには、佳代さんはさらに皇族と近い関係になる。今後も同じように皇族との交流が明かされはしないか心配です」

 金銭トラブルの密談が明かされたことによって、大きな影響がある。1つは、元婚約者Aさんの心中である。

秋篠宮ご夫妻が小室家から説明を受けておられたことを知って、Aさんはどう感じるでしょうか。佳代さんの背後には皇族方がいるのだと“圧力”を感じてもおかしくない。それだけ、皇族方とのやり取りを明かすことの影響は大きいのです」(皇室関係者)

 もう1つは、それを読んだ国民の受け止め方だ。

「佳代さんにしてみれば、“トラブル発覚の直後に迅速に対応して秋篠宮ご夫妻には説明し、ご夫妻もそれで納得したはずだ”という主張なのでしょう。それを読んだ読者も、“そうか、秋篠宮ご夫妻は最初から問題を詳しく知っていたのか”と理解するはずです。つまり、はじめから知っていたのに、秋篠宮ご夫妻はここまで問題が大きくなるのを放置しておいたのか、という国民の疑念につながりかねない、ということなのです」(前出・別の宮内庁関係者)

 いわば、小室家の金銭トラブル騒動の“共犯”のように、秋篠宮家まで巻き込まれてしまった形になったのだ。

「説明したとはいえ、佳代さんは“あれはもらったお金なので返さなくていい”の一点張りだったそうです。実際には、説明でもなんでもない。秋篠宮ご夫妻も強い不信感を抱かれていたのに、いまさら“説明したはずだ”と佳代さんに主張されたことに、ショックを受けられたことは想像に難くありません」(前出・別の宮内庁関係者)

 佳代さんは「告白」の中で眞子さまにまで言及した。

《同じ女性として尊敬……大尊敬しています》《うちの息子にはもったいないくらい》と、佳代さんは眞子さまを評した後、《不安な気持ちを正直にお伝えしたんですが、それでも受け入れてくださって》と眞子さまとのやり取りを告白。さらに、《長きにわたってお相手の方(眞子さま)が息子のことを信じて、愛してくださっている》とも語った。

「皇族方とのやり取り、さらには内心に触れる部分を明らかにするのは、畏れ多いことだとは思わなかったのか……。ただ、佳代さんと眞子さまは親密に連絡を取り合う“相思相愛”の仲だといいます。それを踏まえれば、“インタビューは眞子さまの主導で、コメントも了承されたものではないか”とみる向きもあります」(別の皇室関係者)

 4月に小室さんが金銭トラブルについて説明した文書を出した際には「眞子さまのご意向が大きかった」と宮内庁が明かすなど、いまや眞子さまが小室家の金銭トラブルの対応を主導されていることは公然のことだ。

「佳代さんがどんなタイミングでメディアに露出して、イメージアップのために何を語るかも、眞子さまと段取りを組んでいたと思えてなりません」(前出・別の皇室関係者)

天皇ご一家はお住まいの赤坂御所から皇居の御所へ9月にお引っ越し予定なので、もう皇居に通われる必要がないのです。引っ越しまでは天皇陛下とご一緒に皇居に入られることはあるのでしょうが、雅子さまおひとりで入られる予定はないようです」(皇室記者)

 その最後の日を温かい笑みで迎えられた雅子さま。しかしその直前には、皇后としてなすべき厳しいご覚悟を示されていた。

「御養蚕納」の2日前の7月6日、宮内庁天皇陛下が新型コロナのワクチンを接種されたことを公表した。すでに上皇ご夫妻をはじめ65才以上の皇族方のほとんどは、接種を済まされたことが明らかになっており、上皇ご夫妻は6月22日に2回目の接種を終えられたと報じられた。天皇陛下以外の接種については、宮内庁が“公表”したものではない

「6月1日の1回目接種は読売新聞がスクープ。宮内庁はその報道を否定しなかっただけで、『公表』はしていないのです」(前出・皇室記者)

 宮内庁は皇族方の新型コロナワクチン接種を公表しないというスタンスを貫いている。理由は「個人情報にあたる」というものだ。しかし例外として、陛下の接種は宮内庁によって公表された。西村泰彦宮内庁長官はその理由を、「国民の象徴である陛下については公表するのが適当」と説明した。

「なぜ雅子さまは公表されないのかと、一部で疑念が噴出しました。雅子さまがワクチンを忌避されたのではないかとか、持病のために接種ができないのではないかなど、さまざまな憶測が飛び交いました」(前出・皇室記者)

 皇室関係者が明かす。

「順当に考えれば、陛下とご一緒に接種されているでしょうが、判然としません。陛下は皇居の宮内庁病院ではなく赤坂御所で接種を受けられたといいます。車での移動が必要なく、メディアに知られずに済む赤坂御所で接種されたあたりに、“雅子さまの接種は絶対に公表しない”という意思を感じるのです」

 これまで皇族方のご病気や入院といった健康状態、手術などについては幾度も公表されてきた。雅子さまのご病状の医師団の発表がいい例だ。ワクチン接種についても、新型インフルエンザが流行した2009年、天皇陛下(現在の上皇陛下)だけでなく、皇族方がワクチンを接種されたことも公表された。それなのに、なぜ新型コロナのワクチン接種だけは、特別に秘められるのだろうか。

「1つは、国民へのワクチンの供給が遅れていることが影響しているのでしょう。接種したい人になかなか行き渡らない状況で、自分たちだけが優先的に接種するわけにはいかないという陛下や皇族方のお考えがあるのだと思います。皇族方は海外賓客の接遇などの公務を行うため、やむを得ず打たねばならないジレンマを抱えているので、一律の公表を控えたのだと思います」(宮内庁関係者)

東京が’16年の夏季五輪に立候補した際には、当時の石原慎太郎都知事が、皇太子だった天皇陛下を「招致の『旗頭』に」と協力を要請したのだ。石原氏は天皇陛下雅子さまに五輪招致組織の名誉総裁を要請する考えもあったという。

しかし宮内庁野村一成東宮大夫(当時)は「招致活動の段階から関わることは難しい」「招致活動には政治的な要素が強いこともあるし、すでに決まった式典に出席されるのとは違う話だ」と、この要請を拒否した。

すると石原氏は猛反発し「宮内庁ごときが決めることじゃない。国家の問題なんだから。木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるんじゃない」と激しく批判するという騒動になった。

d1021.hatenadiary.jp

#天皇家

blog.goo.ne.jp

光格天皇は、幕府の意向を無視し、尊号宣下を強行しようとします。

blog.goo.ne.jp

典侍の弟の中山忠光

十四歳で朝廷に出仕、七つ年下の祐宮(後の明治帝)のお相手を務めます。

当時の忠能卿の日記には、息子の忠光に会いに来たとして、武智半平太や同じく土佐の吉村虎太郎、長州の久坂玄瑞入江九一の名が見え、尊攘檄派のアイドル的存在であったことがうかがえます。

天誅組は幕府の討伐を受け、壊滅してしまいます。
忠光卿は逃亡に成功し、長州に身を寄せるのですが、その後の長州藩内部の抗争で、佐幕派の手で暗殺されてしまうのです。

忠光卿は、下関市綾羅木の浜に葬られ、後に中山神社が建てられました。

忠光卿は、忘れ形見を残していました。尊攘派に心をよせる下関の回船問屋の娘、恩地トミは、忠光卿の側に仕えて、種を宿していたのです。
父親の死後、この世に生を受けたのは女の子で、南加と名づけられました。
やがて長州藩は、明治天皇の叔父の忘れ形見をさがしだし、毛利家の養女とした上で、中山家に送り届けます。
忠能卿は、息子の忘れ形見を娘として迎え入れ、成人した南加は、維新後、嵯峨公勝に嫁ぎました。
嵯峨公爵家とは、幕末の正親町三条家です。公勝の父親は、正親町三条実愛
そうなんです。
倒幕の密勅に名を連ねた公卿は、中山忠能正親町三条実愛、中御門経之の三人。
中山忠能の母親は、正親町三条家の娘で、両家は縁が深かったのです。
そして、南加の孫娘である嵯峨浩は、満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑氏に嫁いだ「流転の王妃」です。
満州国滅亡の後、生き別れとなった二人は、激動を乗り越え、やがて再会し、中国で晩年を過ごしました。
現在、中山神社のそばに、愛新覚羅社があります。先に世を去った浩さんが、夭折した長女の慧生さんとともに、非命に倒れた曾祖父、忠光卿のそばに眠ることを望まれたのでしょう。後に、夫の溥傑氏の分骨もそばに葬られ、親子三人が祀られています。

ja.wikipedia.org

父・忠光が暗殺された半年後の慶応元年(1865年)5月10日(もしくは11日)、長府城下(下関市長府)の江尻半右衛門邸で生まれる。長州藩内の対立に巻き込まれ、身の危険があった母娘は住居を転々とする逃亡生活を送る。

毛利氏は支藩長府藩明治天皇の叔父となる忠光を殺害した事を憂慮し、遺児である南加を探し出した。山口で養育し、野村望東尼を養育係に迎える話もあったが、実現しなかった。明治維新後に毛利元徳の養女として大名行列を組み、数百両の持参金を付け、東京の中山家に送り届けたという。

明治3年(1870年)11月、6歳の時に長府から上京した南加は、初めて中山家の祖父母と対面する。王政復古を掲げてわずか20歳で死んだ息子の唯一の忘れ形見である南加を、祖父母は娘として戸籍に入れ大切に養育する事になる。

9歳から三崎町の姉小路家邸内で教える跡見花蹊の寺子屋に寄宿して学び、さらに猿楽町に作った塾(跡見女学校前身)で15歳まで勉強した。この頃、中山家では明宮(のちの大正天皇)を預かって養育しており、学校から帰った南加は、侍女たちと4人で身体の弱い明宮の病気平癒を祈り、日比谷の大明神で百度参りをする習慣を雨風の日も欠かさず4年ほど続けたという。また女子学習院第一期卒業生となる。

19歳の4月、嵯峨公勝に嫁ぎ、実勝・実英・淑子・幾久子の二男二女をもうける。嵯峨家は中山家と婚姻関係など親密な間柄であり、幕末には両家とも勤皇運動で幕府に睨まれる同志であった。この縁談は伯母である中山慶子の熱心な勧めによるものだった。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

日付は、薩摩藩に下されたものが10月13日付、長州藩に下されたものが同月14日付であり、いずれも廷臣である中山忠能正親町三条実愛、中御門経之の署名がある。

詔す。源慶喜、累世(るゐせい)の威(ゐ)を籍(か)り、闔族(かふぞく)の強(きゃう)を恃(たの)み、妄(みだり)に忠良を賊害(ぞくがい)し、数(しばしば)王命を棄絶し、遂には先帝の詔を矯(た)めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おと)し顧みず、罪悪の至る所、神州将(まさ)に傾覆(けいふく)せんとす。
朕、今、民の父母たり、この賊にして討たずむば、何を以てか、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐(しんしう)に報いむや。これ、朕の憂憤(いうふん)の在る所、諒闇(りゃうあん)を顧みざるは、萬(ばん)已(や)むべからざれば也(なり)。汝(なんじ)、宜しく朕の心を体して、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、以て速やかに回天の偉勲を奏し、而して、生霊(せいれい)を山嶽の安きに措(お)くべし。此れ朕の願なれば、敢へて或(まど)ひ懈(おこた)ること無(な)かれ。

ja.wikipedia.org

維新後、改名して嵯峨実愛

blog.goo.ne.jp

孝明天皇の御代、宮廷の女官長は、先帝の御代から引き続いて仕えた大典侍中山績子でした。
弘化三年(1846)、孝明天皇即位の時点で、すでに52歳です。
慶応二年(1866)、孝明天皇崩御のときにも、72歳の高齢で女官長を務めていました。
中山績子は、倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族 で書きました、尊号事件の伝説のヒーロー、中山愛親の娘です。

江戸時代の朝廷は、現在の皇室とは、まったく制度が異なります。直系の皇子が誕生したからといって、ただちに親王になるわけではありません。
そして、親王でなければ、皇位継承の資格として不十分なのです。
安政の大獄の中で、孝明天皇は譲位を表明しますが、そのとき位を譲ろうとしたのは、まだ親王となっていなかった祐宮ではなく、伏見宮家や有栖川宮家の皇子たちのうち、先代、先生代の天皇の猶子となり、親王宣下を受けていた三人でした。

ja.wikipedia.org

文化4年(1807年)、儲君恵仁親王(後の仁孝天皇)の上臈となり高松局と称し、名を愛子とする。文化14年(1817年)、仁孝天皇の即位に際して典侍となり、宰相典侍と称する。文政11年(1828年)、名を績子と改める。天保10年(1839年)、油小路誠子のあとを承け、大典侍となった。仁孝天皇、さらに孝明天皇の譲位後も御所に残留したが、慶応3年(1867年)大典侍を辞す。明治2年(1869年)に正三位に叙された。

明治8年(1875年)2月12日、81歳で薨去