サワラの大葉巻きフライ~わさびのタルタル~
アイスカフェラテ
夕食は鶏の胸肉の大葉挟みソテー、レンコンのキンピラ、茶碗蒸し、味噌汁、ごはん(+明太子)。
デザートは苺。
高田馬場駅から30秒、立ち食いそばの老舗でサヨナラの一杯を…創業46年「吉田屋そば店」女将が語る“閉店までの日々”#文春オンラインhttps://t.co/NTw9emgD4O
— 文春オンライン (@bunshun_online) May 24, 2022
看板には「幸寿司」とあるが、その下にはそばうどんの暖簾がかかる不思議な店。それが「吉田屋そば店」である。
「吉田屋そば店」が創業したのは1976(昭和51)年。今年で46年になるという。「BIG BOX高田馬場ができたのが1974(昭和49)年でしょ。開業当時、高田馬場駅前はすごい活気があったのよ」と語るのは店主の草野彩華(旧姓・吉田)さん(73歳)。
「吉田屋そば店」は、草野さんの父が1947(昭和22)年に創業した「幸寿司」の二毛作として誕生した店である。
早稲田大学の学生達や専門学校生達に加え、1964年に東西線が開通し、山手線や西武新宿線と乗り換える通勤客が激増した。
「店前を朝早くから大勢が通過するのを見ていた父が、朝昼は立ち食いそば屋をやるのがいいのではとの提案があって開業した」という。
開業当時の勢いはすごくて、とにかく学生やサラリーマン達が入れ替わり立ち替わり入店した。多い時は1日800人以上の利用者があったという。
「人波がすごく多くて、しかもみんな時間がないからチャチャッと作ってすぐ提供できて、すぐ食べ終えられるスタイルを提供するしかなかった」と草野さん。
そこで、天ぷらは横浜の仕出し屋から仕入れ、そばは大手の製麺所の茹で麺を使った。つゆだけは自家製で、宗田節と鰹節の厚削りで出汁をとり、ザラメと醤油を併せて作っていたという。
「お客さんのリクエストに応えていくうちに、つゆがどんどん濃くなって現在に至っている」と草野さん。
久しぶりに「天ぷらそば」470円をいただいた。つゆは赤く奇麗な紫色で確かに濃い目だ。つゆをひとくち。出汁の香りがぐんと伝わってくる。そばとの相性もなかなかよい。そして、このコロモの多めの天ぷらもなつかしい。横浜駅すぐにある立ち食いそば屋「鈴一」がかつて仕入れていたのと同じ天ぷらだと思う。何となく味の構成が似ている。本当になつかしい味である。
草野さんに「辛かったこと」も訊いてみた。店の所有地はバブル時には相当転売の圧力があったそうだが、それにも耐えて続けてきたのに、その後のバブル崩壊で近隣の住人がいなくなったことだと草野さんはしみじみいう。
あと、数年前に北海道で大型バイクに乗車中事故に遭い、ドクターヘリで搬送されて、九死に一生を得たことだという。
「仕事も好きだったけど、バイクもすごく好きで、30歳過ぎに大型免許を取ってツーリングにもずいぶんいったのよ。でも事故は辛かった。もう免許は返納したの」と少し寂しげな草野さん。事故は本当に大変で、今も後遺症があるという。
そして、今「もっとも辛いこと」は7月末で店を閉店することだと切り出した。西武線に面した一角で営業している店は4軒のみ。店ヨコの坂道は新宿区戸塚特別出張所に行く人がいなければ閑散としている。8月以降にすべて取り壊され、本格的な再開発を待つことになるという。
「閉店の7月末まで、吉田屋そば店で食べてきた人、そうじゃない人もみんな来てほしいのよ。お別れの挨拶をしたいな。今まで生きてきたんだから」
ところで、草野さんのご主人は大井町の東小路で「彩彩」という大衆そば屋を経営している。その店も、昼はそば屋、夜は居酒屋の二毛作である。
「いざ、高田馬場、吉田屋そば店へ急げ」
彩彩
#食事#おやつ