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建仁3年(1203)9月2日、源頼家の乳母夫めのと・比企能員が誅殺されました。源頼家が突如病に倒れて危篤となると、幕府は頼家の弟・千幡(のちの源実朝)に「関西三十八カ国の地頭職」、長男・一幡に「関東二十八カ国の地頭」と「惣そう守護職」を分割して譲与する配置を取りました。しかし、能員は「一幡以外に地頭職を与えると北条時政の一族に家督が奪われる」と頼家に訴えて時政追討を許可させ、対決姿勢を鮮明にしたのです。これに対し、政子から急報を受けた時政は、能員が謀反を企てようとしていると断じます。そして御家人たちを招集し、逆に能員を追討して比企家を滅亡させました。これが『吾妻鏡』の描く比企能員の乱」です。
しかし慈円が著した『愚管抄』には、『吾妻鏡』と異なる記述がいくつも見られ、能員が時政追討を画策したという記述はありません。むしろこの事件を、幼い千幡の擁立を図った北条時政のクーデターであるかのように記されています。

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父は北条時政、母は時政の後妻の牧の方。

若年での官位の高さなどから見て、時政の嫡男は異母兄の北条義時ではなく、貴族出身である牧の方を母とする政範であったと考えられる。

時政・牧の方鍾愛の子であり、牧の方所生唯一の男子であった政範の死は、畠山重忠の乱、牧氏事件と続く鎌倉幕府、北条氏一族内紛のきっかけとなっている。

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正室北条時政の娘

建仁3年(1204年)11月、源実朝の御台所を京都から迎えるため、朝廷や公家との交渉役を務める。その際、御台所を迎えるために上洛していた武蔵国御家人・畠山重保と朝雅の間で口論となった。その時は周囲の取りなしで事は収まったが、翌元久2年(1205年)6月、先の口論に端を発した畠山重忠の乱が起こり、畠山重忠・重保父子が謀反の疑いで討伐される。『吾妻鏡』は朝雅が重保との争いを妻の母・牧の方に訴え、牧の方が夫の北条時政に畠山親子に謀反の疑いがあると讒言したためとしている。畠山氏は武蔵の最有力御家人で、武蔵国国司であった朝雅とは関係が深い。朝雅の舅で幕府の実権を握っていた北条時政は朝雅の後見人として、朝雅の上洛後に武蔵国の行政権を握っており、武蔵武士団の棟梁である畠山重忠と対立する関係になっていた。

時政は畠山父子を排斥すべく謀反人に仕立て上げたとされ、時政に畠山討伐を命じられた息子の北条義時・時房は反対したが押し切られ、この事件をきっかけに、時政と義時・政子の対立が決定的になったと『吾妻鏡』は書いている。これは時政の先妻の子(義時)と後妻の娘婿(朝雅)を担ぐ時政との北条家内の対立と、鎌倉に隣接する有力国武蔵の支配を巡る畠山氏と北条氏の軋轢が背景にあったものと考えられる。

元久2年(1205年)7月、源実朝を廃して朝雅を新たな鎌倉殿として擁立しようとした時政が失脚した(牧氏事件)。当時、京都守護を兼ねていた朝雅は8月2日(閏7月26日とも)に京都で、幕府の実権を握った北条政子・義時の命をうけた山内首藤通基(経俊の子)によって殺害された。

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比企朝宗の娘。鎌倉幕府第2代執権・北条義時正室。子に朝時(名越流祖)、重時(極楽寺流祖)、竹殿、他。

義時は1年あまりの間姫の前に恋文を送っていたが、姫の前は一向になびかず、それを見かねた頼朝が義時に「絶対に離縁致しません」という起請文を書かせて2人の間を取り持ったという。

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弟に大江広元

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