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母の姉妹が源実朝の室だった関係もあり、建保7年(1219年)の実朝横死後は、兼子の内々の推薦により北条政子によって後継の征夷大将軍に所望されるが、後鳥羽上皇の反対に遭い実現しなかった。

承久3年(1221年)の承久の乱の結果、父の後鳥羽上皇らが配流されると、親王もこれに連座して備前国児島へと流された。同地において薨去したとされ、児島高徳の曽祖父であるとも伝わる。

岡山県倉敷市にある修験道の寺院五流尊瀧院の歴代大僧正は頼仁親王の子孫が務めていると伝わる。

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鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍九条頼経とも呼ばれる。

両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。

竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。

九条道家西園寺公経の娘・掄子の子として生まれる。生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので、幼名を三寅(みとら)と言った。

建保7年(1219年)に3代将軍・源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとして、有力御家人一同が連署した上奏文を携えた使者を京都へ送ったが、後鳥羽上皇に拒否される。そのため源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる2歳の頼経が鎌倉に迎え入れられた。

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なお、頼朝の在世中、鎌倉家臣団は棟梁の最高正二位という高い官位に対し、実弟の範頼、舅の北条時政をふくめ最高でも従五位下止まりという極度に隔絶した身分関係にあったが、参入以前に既に従五位下であった広元のみは早くから正五位を一人許されており、名実とも一歩抜きん出たナンバーツーの地位が示されていた。頼朝死後も、最高実権者である北条義時を上回る正四位を得ており、少なくとも名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていたといえる。

四男・毛利季光は建保4年(1216年)に16歳で従五位下に叙爵、『吾妻鏡』天福元年(1233年)11月3日条に評定衆とある。宝治元年(1247年)の宝治合戦三浦泰村に味方して三浦一族とともに頼朝の持仏堂であった法華堂で自害する。しかし、その四男・経光は越後に居たため巻き込まれず、所領を安堵された。経光の四男・時親は安芸吉田庄を相続し、安芸毛利氏の始祖となって、戦国大名たる元就、輝元らに繋がる。経光の長男・基親越後国佐橋荘南条を相続し、この系統から後北条氏が出ている。

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鎌倉殿の13人では、後鳥羽上皇と親しげに話し、僧侶と言うよりも貴族政治家に近い印象を受けますが、実際にも有力貴族の生まれで僧となり、比叡山で出生し天台座主も4回なっている、政治にも通じた人物でした。

史書愚管抄を書き、北条氏の為に書かれた【吾妻鑑】とはまた違った見方の鎌倉時代を紐解くことが出来ます。

慈円は、摂家・藤原忠道の次男として1155年に生まれました。

藤原忠通の子供たちは、近衛家、松殿家、九条家を起こし、対立を繰り返しながらも摂政・関白の地位を得ています。

1175年に法然が専修念仏を唱えた年、21歳の慈円比叡山の無動寺で千日入堂の修行を始めました。

政子らは以前から後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えるのを催促しました。ところが、後鳥羽上皇はこれを拒否したことで朝廷との関係が悪化します。

そこで白羽の矢が建てられたのが、九条兼実の孫・道家でした。

わずか2歳の藤原頼経が、摂家から将軍職を継ぐことになり、それを補佐する形で北条政子・義時兄弟が政治を担っていくことになります。

現実主義者の慈円は、朝廷と幕府が調和する公武合体論】が持論だった事で、ことある事に血気はやる上皇を度々いさめてきました。ところが、上皇の意思が固く、次第に慈円をうっとうしい感じると遠ざけるようになります。

そこ慈円は、上皇の考えを改めさせるために【愚管抄】を書き始めたのです。

歴史上のすべての出来事は、道理が現れた結果として正当視します。

歴史が天皇親政から、次第に摂関政治に移行したのも、幼い皇帝を支えるための道理である、さらに保元・平治の乱で武士が台頭し、鳥羽法皇以降は武士が天下を制すようになったのも、【武士の世の道理】になったからだと慈円は説いています。

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