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源頼朝の死後、御家人たちの勢力図は目まぐるしく変化しました。その中で、対立を深めていったのが北条時政比企能員です。
北条時政は政子の後押しも受けて、正治2年(1200)1月1日に御家人が鎌倉殿を饗応する儀式である「垸飯」を務めました。これは、御家人の序列を表すものです。また、『吾妻鏡正治2年(1200)4月9日条において、4月1日に時政が遠江守に補任され、従五位下に叙されたと記されています。頼朝の代では源氏一門に限られていた国守に任官し、一般御家人の「侍」よりも格上となる「諸大夫」となったのです。
一方、頼家の乳母夫めのとである比企能員は、建仁2年(1202)7月22日に頼家が従二位に昇叙して征夷大将軍に補任されると、その権威・権力を背景に勢力を伸ばしていきます。また、娘の若狭局(せつ)が産んだ一幡を嫡子にするように頼家を導きました。
北条と比企の争いは、このあとますます加速することになります。

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北条政子北条義時の異母弟。

文治5年(1189年)、三浦義連を烏帽子親に元服し、時連(ときつら)と名乗る。同年、奥州合戦に従軍。建久10年(1199年)に源頼朝が死去し、頼家が第二代鎌倉殿になると、蹴鞠に堪能なことから側近として随従する。頼家が重用した比企能員の息子達とも気脈を通じていたが、北条氏一門のための間諜の役割を果たしていたとも考えられる。建仁2年(1202年)に時房と改名。時連から時房に改名した経緯について、平知康から「時連」の「連」は銭の単位を意味する「貫」を連想し印象が悪いと指摘され、この知康の発言を耳にした頼家から改名を提言されたという逸話がある。建仁3年(1203年)の比企能員の変により頼家が追放されるが、時房はこれに連座せず北条氏一門として次第に重きをなすようになる。

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正治元年(1199年)に頼朝が死去し、嫡男の頼家が鎌倉殿を継ぐと、全成は実朝を擁する舅の北条時政と結び、頼家一派と対立するようになる。建仁3年(1203年)5月19日・子の刻(午前0時頃)、先手を打った頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛し御所に押し込めた[3]。全成は5月25日に常陸国に配流され、6月23日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。享年51。

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頼朝の弟で頼家の叔父にあたる阿野全成が北条氏とともに反頼家派を形成したことから、先手を打って北条氏に対抗した頼家の下知により、全成を誅殺した。

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鎌倉殿の地位を継承した頼家が十三人の合議制に反発し、狼藉不問などの特権を与えた取次役の5人に兄の比企三郎や小笠原長経、中野能成らとともに選ばれ、以後は頼家の最側近として仕えることとなる。

阿野全成が謀叛の疑いで捕縛された際には頼家に命じられ、北条政子に仕えていた全成の妻・阿波局の引き渡しを要求したが、政子より拒否されている。同年9月2日、北条氏との対立による比企能員の変では、一族とともに小御所に籠もったが、北条方に攻められて討死にした。

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