https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

北条時政(坂東彌十郎)と比企能員(佐藤二朗)との争いにより、義時(小栗旬)と梶原景時(中村獅童)の構想から大きく逸脱し、13人まで膨れ上がった訴訟の取り次ぎを行う宿老たち。鎌倉殿となり気負う源頼家(金子大地)はこれを自身の力を侮っている結果だと捉えて憤慨し、北条時連(瀬戸康史)・頼時(坂口健太郎)ら若い御家人をそばに置いてけん制する。そんな中、13人の宿老たちが集まり常陸御家人の土地争いについて評議を……

吾妻鏡』建久10年(1199)4月12日条には、幕府に寄せられるさまざまな訴訟に関して、13人の宿老が対応するようになったと記されています。そのメンバーは、
【有力武士団】
●伊豆 … 北条時政北条義時
●相模 … 梶原景時、三浦義澄、和田義盛
●武蔵 … 比企能員足立遠元
常陸八田知家
●ほか … 安達盛長
【文官】
大江広元三善康信中原親能二階堂行政
の13人。いずれも頼家の父・頼朝を支えた有力御家人です。

これまでは、これを機に源頼家が直に決断することが停止され、この13人の合議によって裁決が行われていたと考えられてきました。しかし、
●『吾妻鏡』の写本のひとつ「吉川本」には「直に決断」ではなく「直に聴断」と記されている
●頼家が裁決したと考えられる正治2年(1200)11月9日付の文書が現存する
などから、頼家が禁止されたのは訴訟の裁決ではなく、訴えを直接聴くことであったとも考えられています。

kotobank.jp

史記―田単伝」の「忠臣は二君に事えず、貞女は二夫を更めず」によるもので、しばしば「貞女は両夫に見えず」と対句にされます。「二君」は、多く「じくん」と読まれました。

平松家本平家(13C前)九「忠臣は二君に仕へず、貞女は両夫に見えず」 〔史記‐田単伝〕

ja.wikipedia.org

源頼朝北条政子の次女(頼朝の子としては第5子で次女、政子の子としては第3子で次女)。三幡は字であり、通称は乙姫。大姫・頼家の妹で、実朝の姉にあたる。貞暁とは異母兄妹(もしくは異母姉弟)。

頼朝は長女大姫を後鳥羽天皇の妃にするべく入内工作を進めていたが、大姫が死去するとこの三幡を次なる候補に擬するようになる。『尊卑分脈』によると三幡は鎌倉にいたまま女御の宣旨を与えられ、正式の入内を待つばかりとなり、頼朝は三幡を伴って上洛し朝廷の政治についての意見を具申する予定であったが、それを待たずに建久10年1月13日(1199年2月9日)に死去した。

頼朝死後も三幡の入内工作は続けられたが、同年3月5日(4月2日)、三幡は去る頃より高熱を出し病となる。

三幡死去。享年14。25日(19日)に京より駆け戻った乳母父の中原親能は出家し、遺体は親能の屋敷がある鎌倉亀谷堂の傍らに葬られた。頼朝の死から5ヶ月半後の事であった。

ja.wikipedia.org

父の盛長は源頼朝の流人時代からの側近であり、幕府草創に功のあった宿老であった。頼朝死後に跡を継いだ2代将軍・源頼家と景盛は不仲であったと見られ、頼家の代となって半年後の正治元年(1199年)7月から8月にかけて、頼家の命令を受けた中野能成や和田朝盛、比企宗員、小笠原長経らによって、留守中に愛妾を奪われ誅殺されようとした所を、頼朝未亡人・政子に救われるという事件が『吾妻鏡』の景盛の記事初見に見られる。鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』にこの事件が特筆されている背景には、頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる。

ja.wikipedia.org

北条時政ではなくもっぱら「北条四郎」を名乗り「北条殿」と呼ばれ、正治2年4月の任官後は「遠州」と呼ばれている(吾妻鏡)。

ja.wikipedia.org

別名 平三(へいざ、へいぞう)

頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光が「忠臣は二君に仕えずという。故将軍が亡くなった時に出家遁世しようと思ったが、ご遺言により叶わなかったことが今となっては残念である」と言ったことが景時に伝わってしまう。朝光の言葉に激怒した景時は、これを頼家への誹謗であると讒言し断罪を求めた。

このことを知った御家人たちは怒り、三浦義村和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出された。頼朝の死後、頼家の元でも継続して権力を振るう景時に対する御家人の不満として噴出したのである。11月、頼家は景時に連判状を下げ渡すと、景時は弁明せずに一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いた。

正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。途中、駿河国清見関にて偶然居合わせた吉川友兼ら在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害。一族33人が討ち死にした。

鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、その死に際する記事で「二代にわたる将軍の寵愛を誇って傍若無人に振る舞い、多年の積悪が遂に身に帰した」と記されている。だが『玉葉』によると景時追放の原因とされた讒言は、将軍・頼家にその弟・実朝を将軍に担ごうとする陰謀があることを報告したものであり、景時追放の3年後には北条氏の陰謀によって頼家が追放・暗殺され、実朝が将軍となり北条時政が実権を握っていることから、北条氏に不都合な景時追放の真相は歪曲され、景時を悪人として断じていることが推測される。元々その職務から恨みを買いやすい立場であった景時への、御家人たちの不満に火を付けて煽ったのは時政の娘で実朝の乳母である阿波局であった。

ja.wikipedia.org

鎌倉幕府第2代征夷大将軍源頼家の長男。母は頼家の妾で比企能員の娘・若狭局。

ja.wikipedia.org

地名の由来は、それまで続いていた陸地が尽きる場所、国土の終端を意味する言葉である「率土の浜(そっとのひん)」と考えられている。

一之宮天満宮梶原景時館跡)

清見

梶原山公園

建長寺

www.youtube.com

《7月24日放送》琵琶湖の湖畔で絶品ごはんを目指してほな行こCar!【ほな行こCar!~寄りみちドライブ~】

湖里庵

#東留伽#あずまる#まるちゃん

#テレビ