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【ゼロからわかる中東問題3】敵に包囲されたイスラエルが取った生き残り戦略|茂木誠

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スエズ動乱スエズ危機、シナイ作戦、スエズ戦争などとも呼ばれる。

1952年に軍事クーデターで政権を掌握した自由将校団は、ムハンマド・ナギーブ将軍を大統領に擁立すると、翌年に国王フアード2世を退位させ共和制へと移行させた。

1956年に大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナセルは、7月26日にスエズ運河の国有化を行なった。

このナセルのやり方に憤慨したイギリスのアンソニー・イーデン首相は運河の国際管理を回復するために数ヶ月間に渡りエジプトとの交渉を続けたが、結実は成せず、フランスと協力してエジプトへの軍事行動を構想し始めた。

英仏両国政府はエジプトに侵攻してスエズ運河地帯の確保を画策したが、第二次世界大戦以後、かつてのような侵略目的の戦争は非難を浴びる社会となっていたことから、英仏が目をつけたのが第一次中東戦争でエジプトと敵対していたイスラエルであった(エジプト革命の際にイスラエルはエジプトを攻撃しており、これに激怒したナセルは、イスラエルのインド洋への出口であるアカバ湾と紅海をつなぐチラン海峡を軍艦をもって封鎖していた。これによってイスラエルは経済に打撃を受けていた)。

スエズ運河の利権を手放したくない英仏と、チラン海峡における自国船舶の自由航行権を確実なものとするためにエジプト軍をシナイ半島から追い払いたいイスラエルは利害が一致したため、三国は事前に調整を重ね、10月末の実行が決定した。英仏の海軍艦隊が地中海のエジプト沿岸に派遣され、侵攻を待った。

イスラエルシナイ半島へ侵攻したところで、英仏政府が兵力引き離しのためにイスラエル・エジプト両国に軍をシナイ半島から撤退するように通告。当然どんな国も自国領土から撤収するはずがないので、エジプトへの制裁を大義名分として英仏軍が介入し、エジプト軍をスエズ運河以西へ追い払った上でスエズ運河地帯を兵力引き離しのための緩衝地帯に設定して平和維持を名目に英仏軍が運河地帯に駐留し、イスラエルシナイ半島を占領する、というのが三か国が描いた筋書きであった。

エジプトの降伏は目前かと考えられたが、ここでアメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領が、冷戦で対立していたソ連のニコライ・ブルガーニン首相(英仏イスラエルへのミサイル攻撃を主張する強硬派であった)とも手を組み、停戦と英仏イスラエル軍の即時全面撤退を通告した。連合国として賛成すると考えていたアメリカが事実上エジプト側に回ったことは、侵攻3カ国にとって大きな誤算であった。

結局英仏はスエズ運河を失い、イギリスのイーデン首相は敗戦の責任をとらされる形で辞職した。アメリカはナセルをこれ以上追い詰めて、ソ連が介入してくることを恐れたが、しかし英仏軍撤退の瞬間にアメリカが欧州に対して圧倒的優位であることを世界に誇示することができた。

イスラエルは率先して戦いを仕掛けたとして国際社会、主にアメリカから非難された。ジョン・フォスター・ダレス国務長官経済制裁を示唆し、イスラエルは上級特使としてハイム・ヘルツォーグとゴルダ・メイアアメリカに派遣した。1956年11月14日にイスラエルのクネセト議会で、制圧した全地域からの軍撤退を決める合意が成された。首相兼国防相のベン=グリオンは右派政党の批判を抑えながら、1957年3月16日に撤退を開始させた。

対してエジプトは国有化宣言を実行できた上に、イスラエルと英仏に対して正面から戦ったことでアラブから喝采を浴び、中東での発言力を確固たるものとした。ナセルは翌1957年1月に国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃し4月にはスエズ運河の通航を再開した。

他方で、英仏は惨憺たる結果で、イギリスは戦費として5億ポンド近く出費したが戦果は得られず、それどころかポンドが大幅に値下がりし、一時スターリング圏が崩壊寸前まで至った。それが原因となりアメリカに対して経済的立場が弱くなり、以降は追従せざるを得なくなった。フランスもこの戦争で得たものはなかったが、米ソ以外の新しい勢力として、ド・ゴール主義を根幹とする新しい外交政策を創り出した。

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