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第66代天皇一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。

関白の内大臣正二位藤原道隆の長女、母は式部大輔高階成忠の女・正三位貴子。正二位内大臣伊周、正二位中納言隆家は同母兄弟。

正暦元年当時、律令が定める「三后」のうち、太皇太后は3代前の帝の正妻・昌子内親王、皇太后は当帝の生母・藤原詮子中宮は先々代の帝の正妻・藤原遵子であった。定子の立后は無理なはずだが、道隆はその中に割り込んで定子を立后させるために、本来皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離させ定子の立后を謀り、また遵子に付属した「中宮職」を改めて「皇后宮職」とし、「中宮職」を定子のために新設し前代未聞の「四后並立」にしてしまった。その結果、「往古不聞事」である(両漢の間)皇后四人の例を作り出して世人の反感を招いたまた、道隆は弟の藤原道長中宮大夫に命じて定子を補佐させようとしたが、道長は父の喪中を理由に立后の儀式を欠席している。世の人々は道長の態度を気丈な事であると賞賛した。のちに道長が「皇后」と「中宮」の区別により「一帝二后」としたが、その元を作ったのが定子の父道隆である。同じ年の5月(6月か7月)には、父・道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任しており、道隆一族は栄華を謳歌することとなった。

長徳元年4月10日(995年5月12日)、関白であった定子の父・道隆が、ついで定子の叔父・道兼が急死すると、その弟道長と定子の兄・伊周が権力を争う。伊周は道長を呪詛、その弟・隆家の従者が道長随身を殺害するなど、中関白家は荒れていた。

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関白・藤原兼家の息子に生まれるが、道隆・道兼という有力な兄に隠れ、一条朝前半まではさほど目立たない存在だった。しかし、兼家の死後に摂関を継いだ兄たちが相次いで病没すると、道隆の嫡男・伊周との政争に勝って政権を掌握。さらに、長徳2年(995年)長徳の変で伊周を失脚させ、左大臣に昇った。

一条天皇には長女の彰子を入内させ皇后に立てる。次代の三条天皇には次女の妍子を中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立が生じ、天皇の眼病を理由に退位に追い込んだ。長和5年(1016年)彰子の産んだ後一条天皇の即位により天皇の外祖父として摂政となる。早くも翌年には摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固めるも、引き続き実権を握り続けた。寛仁2年(1018年)後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。藤原氏摂関政治の最盛期を築き、この頃に権力の絶頂にあった道長は、有名な望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」を詠んでいる。

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倫子の父・源雅信は当時現職の一上であり、かつ道長を自分の土御門殿に居住させたことにより倫子が嫡妻とみなされ、明子は「妾妻」とみなされていた[4]。

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