https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

かつての社会党で委員長などを務めた村山富市・元総理大臣が、17日、亡くなりました。101歳でした。

村山元総理大臣は大分市出身で、労働組合運動を経て、大分市議会議員や大分県議会議員を務め、1972年の衆議院選挙で、旧大分1区に社会党から立候補して初当選し、あわせて8回当選しました。

社会党では、国会対策委員長などを歴任したあと、1993年8月に社会党も加わった非自民・非共産8党派による細川連立政権が発足し、その後、党の委員長に就任しました。

続く羽田内閣では、社会党を除いた院内会派結成の動きに反発して連立を離脱しましたが、羽田内閣の退陣後、自民党は、さきがけも加えた自社さ連立政権の樹立を打診し、村山氏も受け入れ、1994年6月、第81代の総理大臣に就任しました。


社会党の議員としては、片山哲氏以来、47年ぶり、2人目の総理大臣で、自民党社会党の連立政権により、いわゆる55年体制が終わりました。

総理大臣就任後、初めての所信表明演説で、自衛隊を合憲と認め、日米安全保障体制を堅持すると発言し、社会党の基本政策の転換を図りました。

戦後50年の節目にあたる1995年の終戦の日には、「とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた。痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明する」などと、過去の植民地支配と侵略に痛切な反省やお詫びを表明した、いわゆる「村山談話」を発表しました。

また、「人にやさしい政治」を掲げ、被爆者援護法の制定や、水俣病患者の救済に積極的に取り組みました。

一方、在任中は、1995年1月の阪神・淡路大震災のほか、オウム真理教による地下鉄サリン事件や、全日空機のハイジャック事件など危機管理が問われる場面が続きました。

そして、就任から1年半あまりたった1996年1月、突然辞意を表明し、自民党総裁だった橋本龍太郎氏が後任の総理大臣に就任しました。


総理大臣退任後は、閣内には入らずに党務に専念し、党名を変更した社民党の初代党首に就任したほか、1999年には、超党派の訪問団団長として北朝鮮を訪れました。

そして、翌年には、総理大臣在任中に亡くなった小渕恵三氏に対する追悼演説を行ったあと、衆議院の解散に伴って政界を引退しました。

長い眉毛や、庶民的で気さくな人柄から、「とんちゃん」の愛称で親しまれ、NHKの番組「チコちゃんに叱られる!」にも出演しました。

2015年に集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法が成立した際には記者会見して反対声明を出すなど政治的な発言も続けてきました。

2022年6月には、党の存亡をかけて参議院選挙に挑んだ社民党の福島党首を「絶対勝たないかんで。頑張れ」と激励するなど、元気な姿を見せていました。

関係者によりますと、村山氏は17日午前、大分市内の病院で家族が見守る中、亡くなったということです。

死因は、老衰だということです。


石破総理大臣“『人にやさしい政治』掲げた”
石破総理大臣は村山元総理大臣が亡くなったことを受けて談話を発表しました。

この中では「村山氏は阪神・淡路大震災オウム真理教問題など多くの困難に力を尽くして取り組むとともに『人にやさしい政治』を掲げ、水俣病問題の解決に指導力を発揮された。突然の訃報に接し、悲しみの念を禁じ得ない。国民とともに心から哀悼の意を表し、み霊安らかならんことをお祈り申し上げる」としています。

社民党 福島党首“戦争反対 平和への思い強い人”
社民党の福島党首は記者団に対し「驚きだった。引退したあとも『社民党がんばれ』といつも言ってくれて、私にとってはパパみたいな存在で信じられない。『村山談話』は日本の政治にとって意義深いものだった。戦争反対、平和への思いがとても強い人だった」と述べました。

辻元清美 参議院議員「私にとっての『政治の父』」
かつて社民党に所属していた立憲民主党辻元清美参議院議員は、NHKの取材に対し「戦後50年の節目にいわゆる『村山談話』を発表するなど村山さんにしかできない大きな功績を残された。権力にこびない姿が印象的だった。村山さんは私にとっての『政治の父』であり、とてもショックだ」と述べました。

【政治部デスク解説】(2分19秒)

データ放送ではご覧いただけません
10月17日 午後1時台の特設ニュースで放送

立憲民主党 野田代表「先輩の総理大臣としてリスペクト」
立憲民主党の野田代表は記者団に対し「先輩の総理大臣としてリスペクトの念を持っていた。連立政権で非常にご苦労があったと思うが、しっかりとこなされたことに敬意を表すとともに心から哀悼の誠をささげたい」と述べました。

国民民主党 榛葉幹事長“大変な時代 乗り越えた総理”
国民民主党の榛葉幹事長は記者会見で「心からお悔やみ申し上げ、哀悼の誠を捧げたい。日本政治が混とんとしているときに、自民党の政局の中から、まさにウルトラC社会党から総理大臣を出し、大きな歴史の転換点だった。『永田町の政治はドラマティックだな』と鳥肌が立ったのを覚えている」と述べました。

その上で「阪神淡路大震災など大変な時代を乗り越えられた総理だと思う。政局的、政治的にはさまざまな評価や賛否があることは承知しているが、1つの時代を生き抜いた国会議員の先輩だ」と述べました。


#日本(251017)

d1021.hatenadiary.jp